「中国の小学校教科書で中国語を学ぶ」というのはどうなのか

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大多数の人にとって、外国語学習に恐らく近道はない。だが中国語学習に関して言えば、中国の小学校の教科書は確かに一見に値する。

別コラムでもう何度も書いているのだが、大多数の人にとって近道がないのは事実なので如何ともしがたい。これは英語を例に取れば分かりやすい。

この高度情報化社会のただ中で英語学習の「近道」が幾度となく示されてきたが、そのほとんどすべてが「私が」とか「私も含め何人もが」とか「これまで何人もの人が」近道できました!という話をしているだけで、「大多数の人が」とは決して言っていない。

つまり僕のような凡人また語学オンチな人は他の人より時間がかかるのは仕方なく、ごく普通の人が非常に優秀で語学的センスに恵まれた一握りの人またその予備軍である上位20%集団の人と同じ方法を使って必ず「近道」できるかどうかも定かではない。

いつも引き合いに出す「バベルの混乱」の故事よろしく、これには科学的事実の裏付けがある。

つまり外国語を話すことと聞くことは新たな言語野の形成が関係しているゆえ、誰にとっても容易でない。書くことと読むことも上述の先頭集団の人々を除く半数以上の人にとって-つまり平均的な能力を持つ普通の人々を含む大多数の人にとって-決して容易ではない。

だがその同じ科学的事実が、凡人な僕らすべてに「希望の光」を与えている。

問題となっているのは脳内のシナプスの形成に過ぎないので、近道か否かにかかわりなく、文字通り「大多数の人が」目標を相応に達成できる。ようは「慣れ」に過ぎないのである。

この事実を、僕はよく日本語を学ぶ中国人の学生に(中国語で)こんな風に説明している。

「今はコロナ禍だけど、中国ではもう公園に人が戻ってきてるよね。公園に行けば、あるおばちゃんたちは歌を歌ったりダンスを踊ってたりするかもしれない。あるおじちゃんたちは二胡を演奏しているかもしれない」。

「じゃ聞くけど、皆が皆歌を歌ったり踊ったり二胡を演奏したりしているかな?そんなはず、あるわけない」。

「でも皆が皆、母語である中国語は話せるんじゃないかな?ろうあの人でない限り、言語を話せないという人は一人もいないんです。言語を話すということは、それだけ簡単なことなんですよ!」

もちろんこの話には、「日本語や英語を話せるおばちゃんやおじちゃん」は登場しない。そんなおばちゃんやおじちゃんはそれこそまれだろうが、実を言えばこのツッコミどころに、この話のミソがある。

つまり母語であれ外国語であれ、言語のコミュニケーションには歌やダンスや演奏のような完成度は求められていない。

率直に言ってしまえば、下手な歌声を披露したり、変なダンスを踊ったり、耳障りな音楽を奏でるのは人様に迷惑かもしれないが、外国語を話せなかったり聞き取れなかったりは普通であれば人様の迷惑にならない。自分が恥ずかしいだけだ。

であれば、外国語を話せなかったり聞き取れなかったりして恥ずかしくても、別にいいのではなかろうか。

まあそれなりの歌やダンスや演奏をわざわざ人前で披露するおおらかな中国の人々のただ中で、日本語が話せなくて聞き取れなくてハズカシーなどと思う必要は、実のところみじんもないのである。

ところで、こんなことをわざわざ書くのは「光に対して目を閉じて」いる人があまりに多いからだ。

凡人な僕らすべてに「希望の光」があり、ようは「慣れ」に過ぎないのに、中国人との真っ向コミュニケーションにより中国語に「慣れ」ようとする人より、「近道」を探そうとする人の方が多いような気がしてならない。

一方で別コラムにも書いたが、移民のうち「大多数の人」は、移民先の外国語に「慣れ」た結果、大なり小なり新たな言語野の形成に成功している。外国人なまりではあっても外国語を実際に話せるし、聞き取りも相応である。

「移民」のように外国語に「慣れ」る。これこそが成人である「大多数の人」にとっての言語学習の王道なのである。

そんなわけで僕はよく中国人に「まあ(日中ハーフの)娘が小学校に上がるのと一緒に小学校に上がって(つまり宿題を見るなりして一緒に中国語を勉強し)、娘が卒業する頃には一緒に卒業できると思います」と話し、相手の笑いを誘ってきた。

ところが最近、娘の小学校1年生の語文(つまり国語)の教科書を見ていて、我が目を疑った。

教科書の最後の方に物語の主人公の子ザルの動作の説明があるのだが、なんと「掰」の字が載っているではないか。

僕は中国人の妻の助けを得て新HSK6級を取得しているし、「パンを割る(わる)」または「割く(さく)」という意味の「掰開」という熟語も知っているが、この漢字の級別難易度はまさにその新HSK6級レベルなのである。

その中に列挙されている、日本語でも「捧げ銃」(「ささげつつ」つまり銃を用いた敬礼の一種)などの熟語で使う「捧」という漢字もやはり、新HSK6級レベルの漢字である。

しかも教科書の最後の方になるにつれ、ピンイン(日本のフリガナに当たる中国語の発音記号)がほとんど振られていない。

教科書の付録である漢字の部首一覧に至っては、こざとへん(おおざと)が新華事典などで採用されている「耳字旁」という通用名ではなく、「双耳旁」となっている(ちなみに「単耳旁」はわりふ・ふしづくりである)。

だから中国の小学校の教科書は、中国語を学習しようとする外国人にとって確かに一見に値する。事実、1年生の教科書で既に新HSK6級、つまりあくまで目安であるもののTOEICの900-940点またはTOEFLの607-627点程度に相当するレベルの漢字を扱っている。

「なんと、今度は小学校の教科書ですかー」という声が聞こえてきそうではあるが、一つはっきりしていることがあるので、どうぞご自身でご判断いただきたい。

皆さんは歌唱や舞踊や楽器演奏を習いたいと思う場合、誰のところに行くだろうか?もし仮に芸大に受かりたいと思うなら、相応の先生のところに行くだろう(だから僕も若い頃に当時日本で五指に入るような大先生に師事していたことがある)。

では皆さんが正真正銘のネイティブの日本語を話せるのは、相応の先生のところに行ったからなんですか?

この点、中国語学習に関する答えは極めて明快だ。

端的、私は中国語のエキスパートなんです!みたいなことを言う外国人の誰であっても、中国現地の小学校5、6年生の中国の子どもたち以上に通じる中国語を話しかつ聞き取れる(アナウンサーのような標準語ではなく、方言と共にその地方でよそ者と見破られないほどの「標準語」のコミュニケーションができる)人を、僕はただの一人も知らない。

だから、そんなエキスパートさんでも上位20%集団の人でもない僕ら凡人が、じゃ中国語の読み書きは中国の小学校の教科書から始めましょうと言ったからとて、少しも恥ずかしいことではない。

思うに中国語はその点、どちらかというと国際共通語である英語に似ており、日本語はその点、どちらかというと韓国語に似ている。

日本人と結婚し日本語がほぼペラペラな(オーストラリアで育って英語教師の資格があり、中国語も相応に話せる)韓国人の友人が、自分の韓国語は「子どもの」韓国語なので(小学校を卒業する頃にオーストラリアに家族で移住した)、大人の韓国語をうまく話せないんですと笑っていたのを思い出す。

同様に日本の小学校5、6年生が海外に移住し大人になってから日本に戻ってきたら、聞き取りはともかく、通常のコミュニケーションで大人の日本語をうまく話すのは大変だろう。

ところが中国の小学校5、6年生が海外に移住し大人になってから中国に戻ってきても、問題はほとんどない。「やさしい日本語」ではないが、中国語には通常のコミュニケーションに必要な「大人の中国語」というものがなく、そもそも小中学校しか出ていない人が普通にいる。

それにしても、人類の言語を混乱させるという神様が採用したこの方法は極めて効果的だっただけでなく、言語学習の見地からしても意義深い。

突如として脳内に生じた言語野が既存の言語野に置き換わる?というこの「奇跡」は、「天にまで届く塔(つまりバベルの塔)を建てて、われわれの名をとどろかせよう」と考えた人々のコミュニケーションを断つために行われたという。

そんな「私を見てください!」みたいな精神態度の人々は言語学習向きではないから、もし当時のエキスパートさんや上位20%集団の人らが「大多数」の人々に新たな言語を教えようと試みたところで、結局時間の無駄であったことだろう。

中国語学習について言えば、「私を見てください!」といった「塔」建設の試みは、「大多数の人」にとって結局時間の無駄になる。「塔」ではなく身の丈に合わせて「慣れ」ようとするなら、「大多数の人」にとって結局時間の節約になる。

では、どうやって「慣れ」ればいいのか。

もし中国人の友人がおり、その子どもも中国語ができるなら、その子こそがあなたの「身の丈」に合った「相応の先生」なのかもしれない(子どもは大人より自由な時間があり喜んで会話に応じてくれ恐らく無料でそうしてくれる)。その家にもし中国の小学校の教科書があるなら、なんとその教科書も、である。

いやいや、「大多数の人」の一人である僕も世界中の移民の皆さんと同じく、そんな感じなんですよ。「娘が卒業する頃には、一緒に卒業できると思います」。

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