第二次世界大戦の責任を巡る議論において、ドイツの侵略責任を前提としつつも「イギリスの外交失敗が戦争を招いた」と指摘する視点が存在する。これは敗戦国ドイツだけでなく、戦勝国イギリス国内でも一定の支持を集めてきた主張だ。なぜイギリスの指導者たちは、数百万の自国民を犠牲にする戦争を回避できなかったのか。その鍵を握るのが、第一次世界大戦の終結からヴェルサイユ条約、そしてイタリアの独裁者ムッソリーニがヒトラーに抱いた複雑な感情に至る一連の外交プロセスである。
「三十年戦争」としての二つの大戦
ウィンストン・チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』の冒頭で、この戦争を「第一次世界大戦回顧録の続編」とし、「ここに新たな三十年戦争の記録が生まれる」と記した。彼にとって第二次大戦は、第一次大戦の「日種(ひぐさ=火種)」が20年の歳月をかけて広がった結果だった。その火種とは、ドイツ人の復讐心である。
ウィルソンの「勝利なき平和」と現実の乖離
1918年、ドイツ軍の春季攻勢が失敗に終わり、米軍が毎月30万人のペースで増援される中、ドイツはウッドロウ・ウィルソン米大統領の「十四か条の平和原則」に期待して休戦を申し入れた。ウィルソンは「ドイツの偉大さを妬まない」「ドイツの正当な影響力を阻害しない」と宣言し、「勝利なき平和」を掲げた。しかし、休戦条件としてカイザー(皇帝)の退位を要求した時点で、この理想はすでに揺らいでいた。
ヴェルサイユ条約――「悪魔のような」講和
講和会議では、200万人の死者を出したイギリスとフランスがウィルソンの理想を押し戻し、ドイツに極めて厳しい条件を突きつけた。
- 海外植民地の全没収
- 軍事力の大幅制限(戦車・航空機・潜水艦の保有禁止)
- 戦争責任の全面認定と莫大な賠償金
- 総面積の13%にあたる領土割譲(ドイツ人居住地域を含む)
ドイツが拒否すればイギリスは海上封鎖を継続し、食料輸入を遮断すると脅迫した。この「餓死攻め」で40万人以上のドイツ民間人が死亡。ドイツは「銃口を突きつけられた状態」で調印に追い込まれた。
ケインズの予言とドイツ社会の崩壊
英国代表団の一員だった経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、賠償額がドイツの支払い能力を超えているとして強く異議を唱えた。「患者を殺さないよう配慮しても、実行すれば文明史上最も残酷な暴挙の一つとなる」「復讐はすぐにでもやってくる」と警告したが、聞き入れられなかった。
その後、賠償金捻出のための紙幣大量印刷がハイパーインフレを招き、国民生活は壊滅的打撃を受けた。稼いだ賃金の大半が税金として徴収され、それが賠償金に充てられる構造の中で、アドルフ・ヒトラーは「200万人のドイツ人が無駄死にしたことを許さない。復讐あるのみ」と訴え、不安を抱える人々の支持を集めていった。イギリスの政治家ナンシー・アスターが「ヒトラーはどこ生まれか」と問われ「ヴェルサイユだ」と答えた逸話は、この因果関係を象徴している。
ムッソリーニが見抜いたヒトラーの危険性
ヒトラーを当初「痩せ細った猿のような男」「ピエロ」と罵り、手紙と写真を送り返したムッソリーニが、なぜ後に手を結ぶことになるのか。その背景には、第一次大戦時にさかのぼるイギリスの対伊外交がある。劣勢に立たされたイギリスは、ドイツと同盟関係にあったイタリアを連合国側に引き込むため、領土的野心を刺激する秘密条約(ロンドン条約)を結んだ。しかし戦後、イギリスは約束された領土割譲を十分に履行せず、イタリアは「裏切られた」と感じた。この「戦勝国の不誠実」がムッソリーニの対英不信を深め、結果としてヒトラーへの接近を許す土壌を作ったのである。
残される問い――外交の「もしも」をどう検証するか
ヴェルサイユ体制の歪み、ケインズの警告が無視された経緯、イタリアという潜在的同盟国を疎外した外交判断。これらは「イギリスの失敗」として括られる要素だが、それらがヒトラーの独断的決断やナチス・ドイツの侵略戦争の必然性を相殺するものではない。倫理的責任は侵略者にありながら、戦争という帰結を形作った構造的要因にイギリスの外交選択が深く関わっていたことは、歴史的事実として検証に値する。本稿の素材(動画トランスクリプト)はムッソリーニとヒトラーの提携過程の詳細に入る直前で途切れており、その後のミュンヘン会談や独ソ不可侵条約への道筋については別途確認が必要である。戦争回避の可能性を探る視点は、現在の国際秩序維持にも示唆を与えるだろう。