不安やイライラをどうにかしたくて、その理由を延々と考え続けたら、余計に苦しくなった。そんな経験はないでしょうか。アランの『幸福論』が向き合っているのは、まさにこの種の悩みです。先に答えを書いてしまえば、感情は頭の中だけで整理しようとすると、かえって絡まりやすい。体の動きや行動のほうから働きかけたほうが、状況が動くことが多い——これがこの古典が繰り返し示している考え方です。
アランは、フランスの哲学者エミール・シャルティエのペンネームです。1906年から新聞に短い文章を毎日書き続け、その数は5000本に及んだと伝えられています。『幸福論』は、その中から幸福をめぐる文章を選んでまとめたもの。刊行から100年ほど経っても読み継がれているのは、扱っているのが抽象的な幸福論ではなく、不安、仕事、日常生活といった具体的な場面だからです。
なお、豊かさが増しても幸福感が同じように増えるとは限らない、という指摘は幸福研究のなかで古くからあります。経済成長の話と自分の実感がかみ合わないと感じるのは、昔からある疑問だと言えます。
不安や恐怖には、たいてい「原因」がある
『幸福論』のなかで印象的なのが、アレクサンドロス大王にまつわる名馬ブケファロスの逸話です。舞台は紀元前の古代ギリシャ。まだ10代だったアレクサンドロスに、誰も乗りこなせない荒馬が差し出されます。何人もの名手が次々と落馬するなか、彼は馬をじっと観察し、体の向きを太陽の方向へ変えました。すると暴れていた馬は静かになり、やがて生涯の友になった、という話です。
この逸話をアランは、不安や恐怖との付き合い方として読んでいます。馬が暴れていたのは、自分の影におびえていたからでした。つまり恐怖には原因があり、原因がわからないままだと、人は影に怯え続けるしかない。だからまず、その不安の正体をはっきりさせましょう、というわけです。
ここでいう「原因を探る」は、自分を責めるための内省ではありません。何が怖いのか、どの場面で緊張するのかを、観察できる形にしていく作業です。ぼんやりした不安を「影」のままにしないことが出発点になります。
情念は、想像力によって大きくなる
アランは「情念」という言葉を使います。理性では押さえきれなくなった感情のことです。たとえば、はっきりした理由はないのに強いイライラが続く、といった状態を指します。この情念には、人間の想像力をかき立てるという厄介な特徴がある、と指摘します。
仮の例として、あの人に冷たくされたとします。それだけで終わればいいものを、「自分のことが嫌いなのかもしれない」「前にも似たことがあった」と想像が連鎖していく。思考が勝手に筋書きを作り、その筋書きに自分が怯えてしまう。ブケファロスが自分の影に怯えたのと同じ構造です。
厄介なのは、この筋書きが本人にとってはとてもリアルなことです。だから「気にしすぎ」と片づけても解決しません。想像が膨らむ余地を減らすには、思考の外側に働きかける必要が出てきます。
考えるのをやめて、体を動かす
ではどうするのか。アランの幸福論では、情念から離れたければ考えるのではなく行動するほうがよい、という趣旨のことが述べられています。頭で感情をコントロールするのではなく、姿勢や動作、態度のほうから感情に働きかける、という発想です。
これは、運動会のかけっこを思い出すと分かりやすいかもしれません。順番待ちの間は不安でいっぱいでも、走り出してしまえば、目の前のゴール以外は考えられなくなります。プレゼンも同じで、話し始めて数分すると、あの嫌な緊張は少しずつ和らいでいきます。ピアノでもダンスでも、体が動き始めれば集中の対象が切り替わるのです。
大切なのは、激しい運動をしなさいという話ではないことです。日常の姿勢、表情、仕草、挨拶。不機嫌な人は不機嫌な表情と姿勢と話し方をしているのだから、その反対をやってみる。背筋を伸ばす、お辞儀をする、微笑む。それだけのことだ、というのがアランの指摘です。
ただし、これでつらい仕事が根本から変わるわけではありません。気分が切り替わるかどうかには個人差があり、落ち込みが深いときは体を動かすこと自体が負担になることもあります。まずは一つだけ試して、合わなければ別の方法を探すくらいの構えで十分です。
仕事の幸福は「自分で決められている」感覚から
アランは、働くことは最も楽しいものであると同時に、最もつらいものでもある、と書いています。自由に働くことは楽しいが、奴隷のように働くことはもっとつらい、という対比です。
ここでいう「自由」は、好き勝手にやるという意味ではありません。自分の知識と経験に基づいてやり方を調整できること、出来具合を自分で確かめながら試行錯誤できる範囲があること。それがあるかどうかが、働く幸福感を左右するという考え方です。
だから「会社員だから無理」と決まる話でもありません。担当の範囲で進め方を工夫する、手順を自分で組み替える、小さな改善を提案する。裁量を広げる余地は案外あります。一方で、裁量がほとんどない環境では、この方法だけでは限界があります。仕事そのものを見直す、配置を相談するといった選択も必要になります。
生活では「傍観者」で終わらせない
日常生活について、アランは手厳しいことを言います。歌を聴くだけで自分では歌わない、絵を見るだけで自分では描かない、花を眺めるだけで自分では育てない。受け取るだけの楽しみは一瞬で消えやすい、というのです。
逆に、自分で歌う、自分で作る、自分で演じる。手を動かす側に回ることで、喜びは長く残るという考え方です。趣味らしい趣味がないという場合でも、鑑賞のあとに一言メモを書く、写真を撮る、真似して描いてみる。参加の度合いを少しだけ上げるので構いません。
試すときの注意点
ここまで紹介した考え方は、あくまで日常の工夫の範囲です。行動すれば必ず気分が晴れるという保証はありませんし、不安や落ち込みの背景に別の要因が関わっていることもあります。強い不安が続いて眠れない、生活に支障が出ているという場合は、工夫だけで抱え込まず、医療機関や相談窓口を頼ってください。
また、原因を探ることがつらい記憶を掘り返す作業になってしまうなら、一人で進めないほうが安全です。誰かと話しながら、扱う範囲を決めていくほうが現実的です。
アランの幸福論が繰り返し伝えるのは、幸福は特別な出来事として訪れるものではなく、姿勢や手の動かし方、仕事の進め方といった日常の細部に宿る、という視点です。今日できるのは、たとえば背筋を伸ばして席を立つことかもしれませんし、自分から先に挨拶をすることかもしれません。考える時間を少しだけ行動に置き換えてみる。それで調子が変わらなければ、また別の手を探せばいいのです。