ドキュメント化で置き換えられるもの、できないもの
「作業手順や故障記録を徹底的に保存し、AIに検索させれば熟練者への依存を減らせる」という考えは間違っていない。実際、文書化とAIによって既知の問題への対応速度は大きく上がる。
しかし、文書にできるのは基本的に、すでに経験し言葉にできたことだけだ。現場で本当に難しいのは、まだ答えがない問題である。新しい装置で初めて起きた異常、過去の事例に似ているが条件が違う問題、数値上は正常なのに性能が出ない状態。こうした未知の問題には、最初から答えを用意できない。
AIは膨大なログやマニュアルを読み、原因の候補を出すことはできる。だが現場では情報が多すぎる。温度の変化、わずかな振動、部品交換の履歴、別の工程で起きた異常。AIに答えを出させる前に、何を入力し、どの変化を重要だと考えるかを決めなければならない。熟練者が持っているのは答えの記憶だけではなく、どこを見るべきかを決める力だ。
熟練者の価値は「新しい知識を作る能力」
暗黙知を、熟練者の頭の中に隠された秘密の情報だと考えると少しずれる。暗黙知の価値は過去の答えを覚えていることだけではない。未知の問題に直面したとき、何を観察するのか、どの原因から疑うのか、どの順番なら安全に試せるのか、結果を見て仮説をどう変えるのか。そうした判断の進め方にある。
つまり暗黙知とは、保存された知識というより、新しい知識を作る能力だ。過去の答えなら文書にできる。新しい答えを作るには経験が必要になる。ASMLのような装置では、一度の判断ミスが高価な部品の損傷や生産停止につながる可能性がある。AIが候補を示せても、その候補を実行してよいかは現場を理解した人間が決める。
社員が退職するということは、組織が問題を解くための回路の一部が切れることに近い。ASMLが公式に「暗黙知を買う」と説明したわけではないが、必要な人材を短期間で育てられない以上、社員を引き止めることには組織の知識を守る意味がある。
自分の経験を残すためにできること
この話を自分の仕事に置き換えると、何を記録し、何を一緒に働く時間で伝えるかを分ける手がかりになる。すべてを文書化しようとすると負担が大きい。まずは判断に迷った場面だけを残すのが現実的だ。
- 手順だけでなく、判断の根拠を書く。「なぜこの順番で確認したか」「どの数値を先に見たか」を添えると、文書が答えの暗記ではなく判断の練習になる。
- 失敗や例外を記録する。うまくいった事例より、想定と違った事例の方が、未知の問題に近い情報を含んでいる。
- 誰かに説明する形で言語化する。自分だけのメモではなく、次の人が同じ場面で使える言葉に直す。
- 記録できない部分は、一緒に仕事をする時間で伝える。観察のタイミングや安全に試す順番は、文章だけでは伝わりにくい。
合わない場合の代案として、記録を完璧にしようとせず、週に一度だけ「今週判断に迷ったこと」を書き出す方法もある。続けることを優先し、分量は増やさないほうがいい。
AIの土台を作る企業が人間を引き留めようとする動きは、AIが人間を超えるという話の裏で、人間が簡単には代替できないことを示している。置き換えられるのは既知の答えであり、未知の問題に向き合う力はまだ残る。自分の仕事でも、答えの記憶と判断の進め方を分けて考えると、何を残すべきかが見えやすくなる。