「良いほうに考える」と聞いて、きれいごとに聞こえると感じる人は少なくありません。ただ、ここで扱いたいのは、つらい現実に目を閉じることではなく、限りある注意をどこに向けるかを自分で選ぶという話です。そして、その選択が最も効きやすいのは、起きてからの数分だと考えられます。
先に断っておくと、ストレスと体の反応についての説明は、広く共有されている一般的な枠組みをなぞったものです。経済学の用語を朝の習慣に当てはめる部分は、仕組みをつかむためのたとえとして読んでください。
「気休め」で終わらない理由
「前向きな人ほど病気になりにくい」という言い方をされることがあります。ただし、これは因果関係を保証するものではありません。体調を左右する要因は一つではなく、個人差も大きいからです。ここで考えたいのは、そう断言できるかどうかではなく、注意の使い方を変えることに意味があるかどうかです。
鍵になるのは注意です。注意には限りがあり、一度に扱える情報の量も決まっています。同じ一日でも、問題ばかりを探す使い方をすれば問題だらけの景色が返ってきます。逆に、小さな手応えを拾う使い方をすれば、それが材料として積み上がっていきます。良いほうに考えるというのは、この配分を自分で選び直す作業です。
立場や頭のよさだけで長く結果を出し続けるとは限らない、という見方はよく語られます。感情の消耗が少ない人が結果的に長く続く、というのは、その一例として紹介されることがある整理です。
体の側で起きていること
脳には、危険を見張る働きがあります。悪い知らせや誰かの悪意、理不尽な出来事に長く触れていると、この見張りの機能が警報を鳴らし続けているような状態になりやすくなります。そのとき体は、ストレスホルモンとして知られるコルチゾールを分泌します。
コルチゾールは、短い時間なら緊急事態を乗り切るための味方です。問題は、出しっぱなしが続くときです。慢性的なストレスが体に負担をかけることは広く知られており、免疫の働き、記憶や学び、血圧や血糖の調整など、さまざまな面に影響が及ぶ可能性が指摘されています。
ここで気をつけたいのは、「暗いことを考えると病気になる」と単純に決めつけないことです。体調は多くの要因が重なって決まります。暗い考えそのものが直接の原因だと断定できるものではありません。そうではなく、長く続く緊張状態が体に負担をかけるという点だけを、まず押さえておけば十分です。
逆に、ほっとする出来事、ありがたいと思える出来事、まだ何とかなりそうだと感じられる出来事に目を向けると、気分や体の状態に関わるとされる物質が分泌される、という説明がされます。これらが気分をやわらげたり、痛みを和らげたりする方向に働くと考えられています。ただし、これらが出れば病気にならない、という単純な話ではありません。
心と体は一方通行ではない
心が苦しいから体がつらい。これは半分だけです。もう半分は、体の不調がそのまま暗い気分を生み、その暗い気分がさらに体をこわばらせる、という流れです。ここには輪のような関係があります。
この輪には良いところがあります。どこからでも断ち切れるのです。逆向きにも回せます。
体から入る場合
- 深く息を吸って、ゆっくり吐く
- 少し歩く
- 肩の力を抜いてみる
たとえば、椅子に座ったまま肩を上げてからストンと落とすだけでも、数秒で気持ちが少し緩むことがあります。効果の大きさは人によります。
心から入る場合
思わず笑ってしまうようなもの、少しでも目が向くものに意識を向けてみます。数分もすれば、今度は体のほうがゆるんでくることがあります。無理に明るく振る舞う必要はありません。大切なのは仕組みを知ったうえで、輪のどこに手を入れるかを選ぶことです。
暗い気持ちが込み上げてきたとき、悲しんでいいのかどうかを問う必要はありません。感情が湧くのは天気と同じで、自動的なことです。雲が集まるのを止められないのと同じです。問うべきなのは、今の自分の注意をどこに向けられるか、それだけです。
なぜ「朝」なのか
経済学に経路依存という言葉があります。最初に選んだ道が、その後に選べる道を狭めてしまい、しかもその影響は時間とともに強まる、という考え方です。歩き始めた道は、歩くほど引き返しにくくなります。
一日の中でこの性質が最も強く働くのが、朝だと言えます。だから、目が覚めてすぐにスマホを見ないという決まりを自分に課している人がいます。起きてから30分は外からの情報に触れない、というやり方です。
理由として挙げられるのが、眠りから覚めた直後の脳はゆったりした状態にあり、影響を受けやすい時間帯だという説明です。この時間に入ってきたものを、脳はその日の気分の土台にしやすい。そこへ悪いニュースと他人の華やかな生活と未読メッセージを流し込めば、一日を始める前から神経が警戒態勢に入ってしまいます。
行動経済学にはアンカリング効果という考え方もあります。アンカーとは船の錨のことです。人が判断するとき、最初に触れた情報が錨になり、その後の判断はその周りを回りやすくなります。「今日は面倒なことばかりだ」という錨が下りていれば、その後に見るものはすべてその色を帯びます。「今日はちょっと楽しみなことがある」という錨なら、脳はその証拠を探しに行きます。
脳には、何に気づき何を見過ごすかを決めるフィルターのような働きがある、という説明がされます。楽しみという指示を出せば楽しみを拾い、不安という指示を出せば不安の証拠を集めてきます。指示の中身は選んでくれません。
朝の投資として挙げられるのは、たとえば次のようなことです。
- 好きなコーヒーを飲めること
- 夕方にきれいな夕焼けが見られるかもしれないこと
- 読みたかった本を少しだけ読めること
どれも大きなことではありません。けれど、ほぼ確実に起こり、自分の手の届く範囲にあります。コーヒー一杯で何が変わるのか、と思う気持ちも自然です。それでも、最初の錨をどこに下ろすかで、その日の見え方は少し変わります。
小さな手応えをこまめに拾う
心理学には、行動のあとに報酬が続くとその行動は繰り返されやすくなる、という考え方があります。オペラント条件づけと呼ばれるものです。ところが、報酬が遠すぎると、行動と報酬のつながりが切れてしまい、行動は続かなくなります。
年末に大きな目標を達成したときだけ自分を褒める、という設計にすると、毎日の小さな努力には何の手応えも返ってきません。脳はだんだん「努力することは報われないこと」と覚えていきます。それでは、やる気の仕組みが崩れるのも時間の問題です。
だからこそ、大きな結果がまだ見えない日々の中で、小さな手応えを自分で作ります。
- 20分体を動かせた。心の中で少し喜ぶ
- 記事を1つ読み終えた。よくやったと声をかける
- 夜更かしをしなかった。翌朝の頭の軽さをゆっくり味わう
これは自分をだますための甘やかしではありません。小さな喜びは、そのたびに「この行動は繰り返す価値がある」という合図を体に送ります。利益が利益を生むように、小さな手応えも積み重なっていきます。祝うたびに次に動き出すときの心の重さが軽くなり、動く確率が上がり、次の手応えが生まれます。まっすぐな線ではなく、ゆるやかに上向く曲線です。
長い道のりで足を止めてしまう人の多くは、目標がどうでもよくなったからではありません。道のりがつらすぎて、歩き続ける理由が見つからなくなったからです。長く歩ける人は、我慢強い人とは限りません。大きな目標を数えきれないほどの小さな目印に分け、その一つひとつをきちんと喜べる人です。
不安を手放すことと、目を閉じることは違う
「良いほうに考える」とは、困難がないふりをすることではありません。危険なんてないと言い聞かせるのは、楽観ではなく無謀です。
経済学には機会費用という言葉があります。何かに使った時間は、別の何かに使えた時間でもある、という考え方です。心配に使った1分は、何かに気づけたはずの1分でもあります。
リスクを見積もることは必要です。ただ、見積もりが終わったあとも同じ不安を何度も噛みしめ、最悪の結末を何度も思い描くのは、現実と向き合っているようで、実際には消耗しているだけかもしれません。ここは自分で線を引くところです。
合わない人、別の入口が必要な場合
この考え方が合わない人もいます。無理に明るく振る舞おうとすると、かえってしんどくなる場合です。つらさが長く続いている、眠れない日が続く、体の不調が抜けないというときは、気持ちの持ち方だけで抱えず、医療機関や相談機関を頼ってください。ここで紹介した内容は、診断や治療の代わりになるものではありません。
また、置かれている状況が厳しいときは、考え方を変えるより先に、環境や関わり方を変えるほうが現実的なこともあります。良いほうに考えることは、どんな状況でも通用する万能の方法ではありません。
今日の最初の数分に何を置くか
「良いほうに考える」の最初の一歩は、人生観を大きく変えることではなく、朝の最初の一瞬の使い方を変えることだと言えます。元手がかからず、確実に自分の手で選べる範囲の話です。
もし試すなら、明日の朝、目が覚めてすぐにスマホを手に取る代わりに、今日ひとつ楽しみにできることを思い浮かべてみてください。それだけで一日が変わるかどうかは、人によります。合わなければ、深呼吸や散歩など、体の側から入る方法を選べば構いません。どの入口を選ぶかも、あなたが決めてよい部分です。