『ハムレット』の第四幕で、王クローディアスはレアティーズにこう告げます。「私もお前と同じ被害者なのだ。すべてはハムレット、あの男こそが諸悪の根源だ」。父を殺され、妹オフィーリアが心を病んだレアティーズにとって、この言葉は怒りの行き先を一本の矢印にまとめてくれます。悲しみが一人の「敵」へ集約されていくこの場面は、悲劇の筋書きであると同時に、現実の人間関係でも起きる心の動きを映しています。ここで扱うのは作品の読み解きと、そこから見える気持ちの整理の仕方です。心理学的に実証された法則として断定するものではありません。
行き場を失った悲しみは、標的を探し始める
オフィーリアは、短い間に二つの喪失を抱え込みます。愛したハムレットから「尼寺へ行け」と突き放され、その直後に父ポローニアスをハムレットの手で失う。悲しみの向かう先が定まらないまま、彼女は筋の通らない歌を口にするようになります。
兄レアティーズは、それを怒りのかたちで表します。父の仇は誰かと叫び、王に詰め寄る。心理学の領域では、怒りは悲しみや恐れの上に重なる感情として整理されることがあります。怒りは人を動かしますが、その下にある喪失感そのものは、怒鳴っても消えません。
「すべてはあの男のせいだ」という説明の便利さ
クローディアスの言葉が効くのは、それが分かりやすいからです。曖昧な状況に一つの名前を与えると、人はようやく動けるようになります。誰を憎めばいいのかが決まれば、考える苦しさから一時的に解放される。
ただし、この説明を差し出した人物が中立であるとは限りません。クローディアス自身、兄を毒殺して王位についた人物であり、ポローニアスの死にも間接的に関わっています。自分に向かうはずの疑いを、都合よく別の人物へ移している面があります。作中で「敵」として名指された相手が、本当にすべての元凶なのかは、立ち止まって見直す価値があります。
たとえば、仮の話として、職場でトラブルが続いたときに「あの人がいるからうまくいかない」と一人に原因を集める場面を想像してみてください。説明としては通りますが、実際には手順、情報共有、人手不足など複数の要因が絡んでいることが少なくありません。一人に集約すると、他の要因は見えなくなります。
怒りを計画に変えると、見えなくなるもの
クローディアスとレアティーズは、剣術の試合を装ってハムレットを殺す計画を立てます。レアティーズの剣の先には毒が塗られ、先端の安全具は外される。さらに、喉の渇きを見計らって毒入りの盃を渡す。二段構えの罠です。
念入りな計画は、怒りに形を与えます。組み立てている間は、自分が状況を握っている感覚が得られます。けれどこの計画が前提にしているのは、「ハムレットさえいなければすべて解決する」という一本の説明です。物語の後半で毒の盃は別の人物の手に渡り、毒を塗った剣は振るった本人にも傷をつけます。標的を一人に絞った設計は、その外側にいる人や、自分自身を計算に入れていません。
「誰のせいか」と「何が起きたか」を分けてみる
ここまでの読みを日々の場面に持ち込むなら、いくつかの試せる行動があります。
- 強い怒りを感じたとき、その下にどんな喪失や不安があるかを一度書き出してみる。
- 「誰のせいか」と「何が起きたか」を別の欄に分けて書く。原因の候補が複数残るなら、それでよい。
- 一人に原因を集めた说明を聞いたとき、その説明によって誰が楽になるかを考えてみる。
一方で、この見方が当てはまらない状況もあります。暴力やハラスメントなど、被害が現実に進行している場面では、原因を丁寧に整理するより、距離を取ることや第三者に相談することが先になります。気持ちの整理は、安全が確保できてからで構いません。
また、つらい気持ちが長く続いて生活に支障が出ている場合、この記事の内容は診断や治療の代わりにはなりません。専門の相談窓口や医療機関に頼ることも、選択肢の一つです。
墓穴の場面が示す、こぼれた感情の行き先
第五幕、オフィーリアの埋葬の場面は、悲しみが行き先を失ったときの姿を丁寧に描いています。墓掘りの職人たちは、自ら命を絶った者を教会の墓地に葬るべきではないという当時の決まりに触れ、貴族だからと特別扱いされていると愚痴をこぼします。司祭は、これ以上の儀式は他の葬儀を冒涜することになると、レアティーズの求めを断ります。
怒りは、行き場のないまま墓穴へ向かいます。レアティーズは妹の亡骸の上に飛び込み、生き埋めにしてくれと叫ぶ。隠れていたハムレットも飛び出し、二人は取っ組み合いになります。ハムレットが「自分はオフィーリアを愛していた」と訴えるほど、悲しみは激しくなっていく。ここで交わされる言葉は、相手を傷つけるためのものというより、置き場所のない感情の出口を探しているように読めます。
19世紀の画家ジョン・エヴァレット・ミレイは、王妃ガートルードが語るオフィーリアの最後の様子を、花に囲まれた一枚の絵に描き残しました。川に落ちていく場面を美しく描くことは、悲劇を美化しているとも、こぼれた感情を形に残しているとも受け取れます。
敵を決める前に、留保を一つ残しておく
クローディアスは最後に、剣術試合を早く設定しろと命じます。その一方で、ハムレットは航海の途中で海賊に襲われ、イングランド宛ての手紙を開けてしまいます。そこには、ハムレットを直ちに死刑にせよという指示が書かれていた。怒りの矛先を一人に絞ったはずの王自身が、最も冷たい手紙を書いていたことになります。
「敵の正体」を探すとき、声高に名指される相手と、実際に手を下している相手は、同じとは限りません。誰かを悪者に仕立てる説明は、往々にして、説明している本人を守るために使われます。悲しみそのものは、標的を一つに絞ったところで減りはしません。むしろ、絞り込んだ分だけ、他の感情が見えにくくなります。
誰かのせいにしたくなるほど追い詰められているとき、まず確かめたいのは、その怒りの下にどんな喪失があるかです。標的を決める前に、理由を書き出し、複数のまま置いておく。それだけで何かが解決するわけではありませんが、少なくとも、誰かの都合のよい筋書きに乗せられる可能性は下がります。