2020年7月、米戦略国際問題研究所(CSIS)が公表した報告書『中国の対日影響力』は、中国が日本に対して展開する外交戦略や工作活動、そして日本側の対応を53ページにわたって整理している。報告書が浮き彫りにするのは、中国が多様な手段を駆使しながらも、日本国内での世論転換や政治的協力の獲得には至っていないという現実だ。その背景には、日本特有の政治・社会構造が「壁」として機能していることが指摘される。
中国が用いる五つの基本戦略
報告書は冒頭で、ドイツ・マーシャル基金の別報告を引用し、中国が標的国を動かす際の五つの基本原則を挙げている。
- 経済的強制:一線を越えたと判断すれば、巨大な経済力を背景に制裁・資源輸出制限・市場アクセス制限を行う。
- 情報操作・宣伝工作:中国共産党系メディアの海外支局を通じ、中国に有利な情報を目立たせる。
- エリート・仲介者の取り込み:官僚、政治家、国際機関幹部らと強固な関係を築き、中国の活動に協力させる。
- 在外中国人の愛国心の利用:中国批判の抑制や技術窃盗への協力を求める。
- 独裁モデルの輸出:情報統制・監視体制を「良きモデル」として、既存の独裁国家や一部の民主主義国に広める。
これらを組み合わせ、日本国内での中国の印象を改善し、一帯一路などを通じて日本を協力的に導くことが主眼とされる。
コロナ初期の「不自然な友好」と世論の乖離
報告書がまず検証するのは、2020年初頭の新型コロナウイルス発生直後の動きだ。日本政府は大量の支援物資を中国へ送り、中国外務省の華春瑩報道官が日本語で感謝を示すなど、双方が異例の友好演出を行った。しかし、日本政府が米国のような全面的な入国制限を見送るなど「穏やかな対応」を取ったにもかかわらず、日本国民の対中感情は一層悪化した。習近平国家主席の国賓来日が控えていたこと、春節の観光需要、中国の国際的孤立回避などが背景にあったと推測されるが、成果は限定的だった。
孔子学院と中国語メディア――沖縄への焦点
報告書は、統一戦線工作部傘下にある孔子学院を主要な工作拠点として位置づける。2019年時点で日本国内に15カ所が設置され、欧米が相次いで閉鎖する中、日本は一カ所も閉鎖していない。大学側にとっては財源確保の観点から歓迎せざるを得ない事情があるとされる。
また、在日外国人の約3割を占める中国人を対象に、中国共産党系新聞社が日本国内の中国語メディアへ記事を提供し、思想的影響を及ぼしていると指摘される。特に力を入れているのが沖縄で、2017年版公安調査庁報告書も中国の「琉球独立論」提起や世論形成工作の実態を公表している。『環球時報』は「琉球の帰属は未定」との論説を掲げ、学術交流を通じて沖縄における中国有利の世論形成と国内分断を図る戦略的狙いがあると見られている。
一方で、毎日新聞が中国共産党傘下の『チャイナ・ウォッチ』配布に協力していること(部数約660万部との指摘)も言及されるが、朝日新聞元記者の分析では「日本における中国メディアの影響はごくわずかで、日本人は中国の宣伝を信用しておらず、日本のメディアを信頼している」として効果を疑問視する声も紹介されている。
日本側の「協力者」とされる存在
報告書は、中国に有利に働く日本国内の団体・個人を列挙している。創価学会・公明党は長年の日中友好推進で知られ、1971年の竹入義勝訪中が国交正常化の助けになったとされる。鳩山由紀夫元首相は、就任3カ月で習近平副主席(当時)と天皇陛下の会見を企画し、日米同盟に懐疑的な発言を繰り返し、AIIB参加に賛成するなど、中国側にとって「かなり役立った存在」と評される。ただし、汚職の証拠はなく、「日本の政治家として異常(宇宙人扱い)と知られており、無意識にエリート捕捉の連鎖になっている可能性もある」と慎重に記述されている。
報告書が最も多く言及するのは、自民党の二階俊博氏と安倍晋三元首相の補佐官だった今井尚哉氏だ。二階氏は「親中派」と断定され、和歌山県へのパンダ誘致、対中政府開発援助(ODA)推進、一帯一路参加・国賓来日主張、米国の意向を無視して中国の肩を持つ姿勢などが詳細に列挙される。今井氏についても、安倍首相への影響力を行使し続けた経緯が紹介され、「政府要人だけでなく党幹部や裏方の補佐官まで言及するのは珍しい」との評価が添えられている。
日本が影響を受けにくい四つの構造的要因
報告書は、日本人の対中好感度が極めて低い理由として、日本固有の四つの特徴を挙げている。
- 外部からの開放度が低い:内国直接投資額、外国人人口比率、貿易依存度がいずれも世界最低水準で、外部影響を受けにくい。(安倍政権下で観光客・留学生が急増し、最大グループが中国人になった点は注記される。)
- 政治の硬直性と国民の無関心:政治が保守的で凝り固まっており、選挙への介入があっても大きな変化は望めない。これを支えるのが国民の政治無関心と低い対中好感度だ。
- メディア産業の国内独占:日本のメディアは日本企業が独占し、新聞社が非上場であるため外資の影響を受けにくい。中国語メディアの影響力も極めて弱い。
- 親中派ネットワークの限界:前述の団体・個人は存在するが、活動成果は芳しくない。日本人が中国文化に関心を持たず、中国そのものの好感度が低いため、台湾の友好団体より影響力が低いとされる。
実際、ピュー研究所の2019年世論調査では34カ国中日本が最も対中好感度が低く、内閣府調査でも好意的20%、否定的75%程度という数字が示されている。習主席自ら2019年に「責任は日本側にある、偏見をなくすためもっと努力せよ」と不満を表明したほどだ。
西側が日本から学び始める対抗措置
報告書の最終章は「日本からの教訓」として、日本の「孤立性」を西側諸国が一部取り入れ始めていることを指摘する。政治献金規制(外国人献金の厳格化)、外国人の土地購入制限議論、先端技術企業の監視強化、セキュリティ・クリアランス導入検討などが例示される。ただし、土地所有規制では欧米に後れを取っており、北海道の自衛隊基地周辺土地が中国資本に多く所有されている件について「日本には規制がなく、政府が中国の土地保有実態を把握していない可能性がある」と懸念を示している。
報告書が描く全体像は、中国が体系的な影響力工作を展開しながらも、日本の構造的特性と国民感情の壁に阻まれ、戦略的目標を達成できていないというものだ。他方で、日本国内に協力的な政治的アクターが存在し、沖縄を巡る工作が継続していることも事実として提示される。今後、日本がどのように法的・制度的防御を強化しつつ、外交的対話のチャネルを維持していくか。報告書は明確な処方箋を示さないが、現状の「四つの壁」がいつまで機能し続けるか、慎重な観察が求められる。