遊びは、暇つぶしでも、真面目な活動の反対物でもない。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で示したのは、こうした見方でした。彼は、法や芸術や祭りといった文化の営みが、遊びの形式と雰囲気の中で形づくられてきたと考え、遊びを人間活動の土台に置きました。ここでは「遊びはなぜ人生に必要なのか」という問いを、著書で展開された主張をたどりながら考えていきます。
「賢い人間」ではなく「遊ぶ人間」
ホイジンガは1870年、オランダ北東部のフローニンゲンに生まれました。少年時代から語学や歴史を得意とし、大学では言語学を学んだあと、古代インド学やヨーロッパ中世史へと研究対象を移していきます。1915年にライデン大学の歴史学教授となり、中世の文化や思考の形式を扱った著作が各国で読まれるようになりました。
そして1938年、65歳のときに発表したのが『ホモ・ルーデンス』です。ラテン語でホモ・サピエンスは「賢い人間」を意味します。それに対してタイトルは「遊ぶ人間」。人間を定義するとき、知性ではなく遊びを選んだところに、この本の立場が表れています。
遊びは「何かのため」ではない
遊びについては、これまでさまざまな説明が試みられてきました。あふれる生命力を発散させる行為だという説、緊張から解放されたいという欲求から生まれるという説などです。これらの考えには共通点があります。遊びが何らかの目的に役立っている、という前提です。
ホイジンガは、その前提に違和感を示します。赤ん坊はなぜあんなに笑うのか。ギャンブルに人はなぜのめり込むのか。スポーツはなぜ何千という人を熱狂させるのか。こうした面白さは、どんな分析でも割り切れない。ならば面白さこそが遊びの本質ではないか、というわけです。
これは「遊びに意味がない」という話ではありません。外から目的を与えられなくても、それ自体で成立する営みだ、という見方です。大好きなゲームに没頭しているとき、「それで何になるの」と聞かれても「面白いから」としか答えようがない。その感覚に近いかもしれません。
遊びを見分ける五つの手がかり
著書では、遊びの形式的な特徴として次の五点が挙げられています。ただしこれは「当てはまらなければ遊びではない」という決めつけではなく、見分けるための手がかりとして読むと使いやすいものです。
- 自由な行動であること。やりたくないのに参加させられたら、それはもう自由ではありません。鬼ごっこでもサッカーでも、楽しいと思えばやればいいし、興味が湧かなければやらなくていい。
- 利害関係がないこと。積み木で城を作る子どもは、親に褒められたいからでもお小遣いが欲しいからでもありません。儲かるから、みんながやっているから、という理由で行う行為は遊びの外側にあります。
- 間欠性と限定性があること。サッカーには前後半の時間があり、コートという区切りがあります。いつ始まっていつ終わるかわからないまま続くものは、遊びの形をとりにくい。
- 絶対的な秩序があること。ルールの違反は、その場の空気を一瞬で凍らせ、遊びそのものを壊してしまいます。逆に言えば、ルールがあるからこそ、やってみないとわからない緊張感が生まれます。
- 非日常的であること。日常の掟や習慣から離れた場所で行われます。秘密基地でビー玉がお金の代わりになるように、秘密という要素が加わると面白さはさらに増します。
仕事や家事に遊びの要素を取り入れたいなら、この五点はチェックリストとして使えるかもしれません。時間を区切る、目的から少し離れる、小さなルールを決める。ただし全部を満たす必要はありません。
神聖な儀式にも遊びの構造がある
著書はその後、遊びと文化の関係へと進みます。取り上げられるのは、神々を祀る儀式です。儀式は柵で囲まれた場所で、限られた時間の中で行われ、独自の世界を成立させます。終われば日常に戻りますが、その働きまで消えてしまうわけではありません。むしろ日常に光を投げかけ、集団に秩序や安全、次の季節までの繁栄をもたらすものとして扱われます。
つまり儀式は、真面目な文化行事でありながら、同時に遊びの性格も併せ持っている。非日常的でありながら、日常から完全に切り離されているわけでもない。ここが面白いところです。
「真面目」より遊びのほうが根源的だという主張
ホイジンガは、真面目と遊びを対等な対立物とは見ていません。真面目とは、突き詰めれば「遊びではないもの」を指す言葉であり、それ以上でもそれ以下でもない。一方、遊びは真面目の反対物ではなく、それ自体の内容を持つ概念だ、という整理です。
そのうえで、文化は遊びの形式と雰囲気の中で営まれてきた、と述べます。遊びがやがて文化に発展したのではなく、文化のほうが遊びの中で育ってきた。文化という呼び名は、私たちが後から与えた名称にすぎない、という見方です。経営や音楽のような分野も、突き詰めれば遊びの中で形づくられてきた、というわけです。
ただし、これは著書の中で展開された主張のひとつです。遊びの起源や機能をめぐる議論はその後も続いており、すべての研究者が同じ立場をとっているわけではありません。ここは解釈として受け取っておくのが安全でしょう。
日常に置き換えるなら
この考えを日々に持ち込むなら、まず「遊びを生産的なことに結びつけなくていい」と覚えておくと気が楽になります。何かの役に立つから遊ぶのではなく、面白いから遊ぶ。その順番を入れ替えないことです。
具体的には、時間と場所に小さな区切りを作る、目的から少し離れた活動をひとつ持つ、ゆるいルールを決める、といった試し方が考えられます。いずれも効果を保証するものではなく、合う合わないがあります。
心身が疲れているときや、気分が沈んで何をしても楽しく感じられないときは、遊びを義務のように課すと苦しくなります。楽しめないのは意志の弱さではありません。そうした場合は無理をせず、専門的な支援を検討する選択肢も残しておいてください。
まとめ
遊びは、真面目な活動の隙間を埋める気晴らしではなく、文化や学問の前提にある営みとして位置づけられています。だからこそ、予定表のすき間に「何のためでもない時間」をひとつ入れてみる。それくらいの気軽さで、遊びとの距離を測り直してみるのもよいのではないでしょうか。