治ったのに、笑われるようになった
ある年、都に出ていた弟子が、医者から鼻を短くする方法を教わって帰ってきます。内供はすぐに試したいと思いながら、素直に頼もうとはしません。「食事のたびに弟子の手を煩わせるのも心苦しい」と言い、あくまで説得されて渋々受けたという形を取ります。
治療法は奇妙なものでした。鼻を熱湯で茹でたあと、人に踏んでもらうというものです。弟子が両足で踏み、毛穴から油を抜き、もう一度熱湯に浸す。終わって鏡を覗くと、垂れ下がっていた鼻は嘘のように縮んでいました。
ところが、その後の展開は逆方向に進みます。侍は以前にも増して可笑しそうな顔で鼻を眺め、弟子たちは内供が背を向けた途端にクスクス笑い始めるのです。内供は次第に不機嫌になり、子どもや下働きの者たちを叱りつけるようになり、周囲から疎まれていきます。
「傍観者の利己主義」という説明
この変化について、作中では人間の心の仕組みが次のように説明されます。人間の心には、互いに矛盾した二つの感情がある。誰でも他人の不幸に同情しないものはいない。しかし、その人がその不幸を切り抜けることができると、今度はどこか物足りないような気持ちが生まれる。少し誇張していえば、もう一度その人を同じ不幸に落とし入れてみたいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある種の敵意を抱くようになる——という趣旨の記述です。
ここで語られているのは、悪意というほど強いものではありません。むしろ、同情と物足りなさが同じ心の中で同時に動いているという感覚です。相手が不幸なままでいてくれる間は、こちらは心から心配できる。相手が回復すると、その同情の置き場所がなくなり、代わりにざらついた感情が顔を出す。この二つは別々の心ではなく、ひと続きの反応として現れます。
なぜ物足りなさが生まれるのか
一つの見方として、他人の状態は自分を測るためのものさしになりやすい、ということが挙げられます。相手がつらい立場にいるとき、こちらは助ける側に立てます。相手がそこから抜け出すと、その位置づけが消えてしまう。だから素直に喜べない。これは性格の善し悪しというより、人と比べながら自分の位置を確かめる心の癖として理解できます。
ただし、この感覚の強さには個人差があります。ほとんど生じない人もいますし、相手との関係によっても変わります。作中の説明をそのまま自分の説明に当てはめる必要はありません。
自分の内側にこの感覚を見つけたら
仮の例として、長く悩んでいた友人が問題を解決したと聞き、祝福の言葉を送りながら、心のどこかがざわついた、という場面を思い浮かべてみてください。そのとき、次のように考えてみる方法があります。
- まず、その感覚を「冷酷だ」と裁かない。感情は起きてしまうもので、起きたことと、それにどう行動するかは別の問題です。
- 物足りなさの正体を、比較や安心の観点から眺めてみる。相手と自分を比べて安心していた部分がなかったか、と問いを立てます。
- 急いで結論を出さず、その人に対して実際にどう振る舞いたいかを選ぶ。感情を消すことではなく、行動を選ぶことが現実的な対処になります。
一方で、この見方が合わない場合もあります。相手との関係がそもそも希薄で、嫉妬ではなく単に疲れているだけということもあるでしょう。また、こうした感情の揺れが長く続き、生活に支障が出ている場合には、この記事の範囲で抱え込まず、専門的な支援を検討したほうがよいと思います。
心の矛盾を、そのまま見ておく
『鼻』が読み継がれてきたのは、この矛盾を「悪い心」として断罪せず、誰の内側にもあるものとして描いたからではないでしょうか。内供は鼻を短くしても、周囲の視線から自由にはなれませんでした。変えたのは外見で、見られ方や自分の感じ方ではありません。
他人の回復を素直に喜べない自分に気づいたとき、それを隠す必要はありませんが、だからといって相手を引き戻そうとする必要もありません。まず自分の内側で何が起きているのかを眺める。そのうえで、どう振る舞うかを選ぶ。作中の説明を手がかりにすると、少なくとも、感じてしまった感情と、これから取る行動を分けて考えられるようになります。