「言い返す」「報告する」「耐える」が空回りしやすい理由
つらい状況から抜け出そうとするとき、多くの人がまず試すのは次の三つです。言い返して立場を守る。証拠を集めて上に報告する。そして、ひたすら耐える。ところが、この三つはいずれも「相手や環境を変える」ことを前提にしています。
言い返せば攻撃が強まり、報告してもみ消される。耐えれば、ある日布団から出られなくなる。ハラスメントに関する実態調査として、対象企業の6割以上が相談を受けたことがある、労働者の約5人に1人が経験したことがあるという数字も紹介されていました。調査の実施主体や対象範囲の詳細までは確認できませんが、声を上げにくい人が多いという指摘自体は、実感に近いところがあるかもしれません。
とはいえ、記録や相談が無意味というわけではありません。記録は自分の身を守る材料になり、第三者が関与すれば状況が動くこともあります。ここで伝えたいのは、相手を変える一手だけに賭けると、それが動かないときに自分が追い詰められてしまう、ということです。
工夫1:課題の分離——「誰の課題か」で分ける
アドラー心理学に「課題の分離」という考え方があります。簡単に言えば、ある出来事の結果を最終的に引き受けるのは誰か、という線引きです。上司が怒るかどうかは上司の課題であり、その言葉で傷つくかどうかは自分の課題。この二つは別物として扱えます。
仮の例として、上司に「使えない」と言われたとします。これまでは、その言葉をそのまま自分の評価として飲み込んでいた。ここで一度、「上司がそう評価した」という出来事として置いてみる。事実として受け取る部分と、相手の感情として返す部分を分ける、という使い方です。
ただし、指摘の中に業務上妥当な内容が含まれていることもあります。すべてを「相手の課題」として切り捨てるのではなく、事実と評価を分けて拾うのが現実的です。
工夫2:観察者になる
二つめは、嫌な相手を「珍しい生態の生き物」として眺める方法です。今日の怒りレベルは8、新しい言い回しを発見、などと心の中で記録していく。被害者の位置から観察者の位置へ、少しだけ移動する感覚です。
「楽しむのではなく、面白がる」という趣旨の言葉が、女優の樹木希林さんのものとして紹介されていました。原文を確認できていないため、ここでは考え方として受け取っておきます。相手を許す必要はなく、距離の取り方のひとつです。
注意したいのは、怒りを感じるたびに記録することが苦痛になる人もいるという点です。観察が「我慢の言い換え」になってしまうなら、この方法は合っていないサインです。
工夫3:自動販売機モード
三つめは、自動販売機になるという発想です。自販機に怒鳴っても何も返ってこない。同じように、何を言われても感情をぶつけ返さない。贈り物を差し出して相手が受け取らなければ、その贈り物は差し出した人のもとに残る——というたとえで説明されていました。
ここで気をつけたいのは、これは感情を抑え込むこととは違う、という点です。抑圧は長期的に心身の負担になることがあります。無表情を作ること自体がつらければ、無理に続ける必要はありません。向き不向きのある工夫だと考えてください。
工夫が向かないとき——環境を変える選択肢
自分の受け取り方を変える工夫は、環境を変える行動の代わりにはなりません。次のような選択肢は、状況に応じて並行して検討する価値があります。
- 日付と内容を一行ずつ記録しておく(自分の状態を客観視する材料になる)
- 社内の相談窓口、人事、労働組合など、複数の窓口に相談する
- 外部の相談機関や労働基準監督署などの公的な窓口を調べる
- 転職や異動を、逃げではなく選択肢のひとつとして情報収集する
- 不眠や体調不良が続く場合は、医療機関に相談する
「3年で辞めると根性なしと思われるのでは」という不安についても触れられていました。ここでいう「世間」は、特定できる誰かではありません。実際にそう言う人がいたとしても、それは数ある意見のひとつです。
まとめ
最初の問いに戻ります。嫌いな人に心を削られ続ける人と、そうでない人の違いは、心の強さではなく、力を向ける先をどこに置いているかという点にあります。相手を変える努力と、自分の内側を整える工夫は、どちらか一方ではなく、両方持っておくもの。順番も配分も、置かれている状況によって変わります。
今日できる小さなこととしては、たとえば、つらかった出来事を日付と一緒に一行だけメモしておく。それだけで、自分の状態を少し離れた位置から見る材料になります。試してみて合わないと感じたら、その方法は手放して構いません。