考えすぎてしまう、人の気持ちを読みすぎて疲れる、感情に振り回されて自分が分からなくなる。そんなときに「考えるのをやめましょう」と言われても、簡単にはやめられません。16世紀フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュが『エセー』で選んだのは、考えるのをやめることではなく、考えている自分自身を観察の対象にして、そのまま書き留めるという方法でした。彼はそれを、憂鬱や孤独を紛らわせるために始めたと書いています。ここでは、その考え方と、日常で試せる形、そして合わない人のための注意点を整理します。
モンテーニュは何を抱えて書斎にこもったのか
モンテーニュは1533年、フランス南西部ボルドーの東にあるモンテーヌ城で生まれました。家はワインや染料の取引で財を成した新興貴族で、父親は教育熱心な人物だったと伝えられます。母国語を覚える前にラテン語を学ばせるほどの英才教育を受け、大学では法律や哲学を学び、21歳で裁判官になります。
ところが、人を裁くという仕事は、彼の性質に合わなかったようです。同じ職場には3歳年上のエティエンヌ・ド・ラ・ボエシーという同僚がいて、二人は深い友情で結ばれます。しかし1563年、モンテーニュが30歳のころ、ラ・ボエシーは疫病で亡くなりました。自分にとってのもう一人の自分を失うような別れだった、と彼は後に書いています。
数年後、モンテーニュは裁判官を辞め、蔵書に囲まれた書斎で過ごす生活に入ります。そこで始めたのが『エセー』でした。ただし、隠遁したから穏やかな日々が保証されたわけではありません。彼はその後、宗教戦争のさなかのボルドー市長に推薦され、ペストの流行にも見舞われます。市の人口の3分の1が失われたとされるほどの状況でした。それでも書き続け、1588年には大規模な加筆修正を経た版がまとまります。
自分を題材にする——うまく書かなくていい文章
『エセー』の冒頭は、読者を歓迎する言葉ではありません。モンテーニュは、この書物は自分の身内や友人のために書いた私的なもので、世間の役に立とうとか名誉を得ようといった意図は含まれていない、という趣旨のことを宣言します。装飾を凝らして立派に見せることもできたけれど、そうはしなかった。描く対象は自分自身であり、欠点も生まれながらの姿もそのまま書いてある、というのです。
ここには、文章を書くことに対する構えが表れています。うまく書くことではなく、自分をよく見せないまま記録することが目的になっている。考えすぎて苦しい人が何かを書くとき、この前提は助けになります。人に見せない、評価されない、うまくまとまらなくてもいい。そう決めておくと、書くことのハードルはかなり下がります。
書き始めさせたのは、憂鬱な気分だった
モンテーニュは、自分がものを書くことになったきっかけについて、ある憂鬱な気分だったと述べています。孤独がもたらす不愉快な気分から逃れたいという動機で、崇高な理念からではなかった。本来の自分の気質とは正反対のことを始めた、という言い方もしています。書く題材がほかに見つからなかったので、自分について書くことにした、というのです。
さらに彼は、悲しみや憂鬱について踏み込んだ見方も示します。古代ギリシャの哲学者メトロドロスの言葉として、悲しみにはいくらかの快楽が混じっている、という考えを紹介しています。心に憂鬱を育てる行為の中には、いくらかの思惑や自己満足、ときには野心すら混じっているかもしれない。憂鬱の奥底には何かしら心地よい甘さがあり、こちらに笑いかけてくる——そう書いています。泣くことにはいくらかの快感があるという古代ローマの詩人オウィディウスの言葉や、亡き友人との思い出は古いワインの苦味や甘酸っぱいリンゴのように心地よい、という別の哲学者の言葉も引かれています。
ただし、これはモンテーニュが自分の内面を語ったものであり、憂鬱が良いものだという主張ではありません。つらさを無理に肯定的に読み替える必要はありません。悲しみの中に快のようなものが混じることはある、という一つの観察として受け取るのが穏当です。
悲しみを特別扱いしないという立場
モンテーニュはまた、自分は悲しみという感情を最も知らない人間の一人であり、この感情が好きでもなければ重視もしていない、とも書いています。一方で世間の人は、示し合わせたように悲しみに特別な価値を置いて敬う、というのです。
ここで注目したいのは、感情の扱い方に唯一の正解があるわけではないという点です。悲しみを大切に扱う文化や習慣もあれば、モンテーニュのように距離を置く構えもあります。どちらが優れているという話ではなく、自分がどちらに近いかを知る手がかりになります。
この方法が合わない人もいる
自分を観察して書くというやり方は、誰にでも向いているわけではありません。
- 書くことで考えがさらに深みにはまり、余計につらくなる人
- 内面を見つめるより、体を動かしたり人と話したりするほうが楽になる人
- 文章を書く習慣がなく、書くこと自体が負担になる人
また、つらさが長く続いている、眠れない日が続く、生活に支障が出ているという場合は、古典を読むことや自己観察で何とかしようとせず、医療機関や相談機関など専門的な支援を検討してください。『エセー』は治療の代わりにはなりません。
もう一つ、現実的な注意点があります。モンテーニュ自身、静かな書斎にこもったあとも、市長の職務や戦争、疫病に巻き込まれました。環境を整えても、外の出来事は入ってきます。整った環境が手に入らないことを、自分の努力不足と結びつけないでください。
今日試せる小さな形
『エセー』の姿勢を、日常のサイズに縮めて試すなら、次のような形になります。
- 5分だけ書く。うまくまとめようとせず、「今日は何がしんどかったか」を一文でも書ければ十分です。
- 誰にも見せない前提にする。モンテーニュが身内と友人のための私的な書物だと断ったように、公開しないと決めておくと本音が出しやすくなります。
- 感情を消すのではなく、名前にしてみる。「悲しい」「疲れた」「腹が立った」と書くだけでも、感情と自分との間に少し距離ができます。
- 全部読もうとしない。『エセー』は断片的な文章の集まりで、通読しなくても成立します。目次から気になる一篇だけ拾い読みする読み方で構いません。
なお、これらは効果を保証するものではなく、一つの選択肢です。合わなければ、別の方法を試すほうが現実的です。
考えを止めるより、扱える大きさに分ける
考えすぎをやめようと力を尽くすと、たいていは「やめられない自分」が残ります。モンテーニュがしたのは、その逆に近いことでした。考えている自分を消そうとせず、観察の対象として書き留め、うまく書けないまま何年も加筆を続けた。彼の方法がすべての人に合うわけではありませんが、感情を敵として退治するのではなく、扱える大きさに分けて眺めるという選択肢があることは、覚えておいてもいいかもしれません。