予定のない休日に、そわそわしてしまう。何もしていない自分に、少し罪悪感がある。そう感じるのは、意志が弱いからでも、怠け者だからでもありません。哲学者バートランド・ラッセルが『怠惰への讃歌』で示した見方に沿えば、その感覚の背景には「働くことは善で、怠けることは悪」という、長い歴史を持つ価値観があります。
ここでは、ラッセルがその価値観をどう捉え、何を問題にしたのかをたどり、現代の働き方に置き換えて考えてみます。ラッセル自身の主張と、そこから筆者が読み取った解釈は、できるだけ分けて書いていきます。なお、この考え方がすべての人に当てはまるわけではありません。
「労働は美徳」という価値観は、どこから来たのか
ラッセルは、働くことを善とする考え方が、宗教や文化の長い積み重ねの上に成り立っていると見ていました。たとえば、古代ギリシャのヘシオドスの作品では労働の尊さが歌われ、新約聖書には働かない者は食べるべきではないという趣旨の言葉があり、宗教改革の時代にはマルティン・ルターが、日常の仕事を神に喜ばれる行いと捉える「天職」という概念を唱えました。働くことはそれ自体が価値ある行為だという感覚が、こうした流れの中で形づくられてきたわけです。
この価値観を、ラッセル自身も身近に経験しています。1872年にイギリスの貴族家庭に生まれた彼は、幼い頃に両親を亡くし、祖父母のもとで厳格なピューリタン的教育を受けて育ちました。冷たい水風呂に入れられたり、夕方まで椅子に座ることを許されなかったりといった厳しさの中で、思春期には自殺を考えるほど追い詰められ、家族との会話も避けるようになったと伝えられています。その彼を支えたのが、自然と読書、そして数学でした。古代ギリシャの数学者ユークリッドの著作との出会いを、彼は自伝の中で人生の大きな出来事の一つとして振り返っているといいます。
その後ケンブリッジ大学で数学と哲学を学び、数学者ホワイトヘッドとの共著『数学原理』で数理哲学の分野に名を残しました。第一次世界大戦では徴兵に反対し、大学を追われ、投獄も経験します。こうした経緯から教育への関心を深め、子どもの教育を通して社会の幸福を目指す学校も創設しました。そして、幸福をテーマにした著作の二年後に発表されたのが『怠惰への讃歌』です。厳格な「美徳」の中で育った人が、勤勉さそのものを疑う文章を書いたという点は、覚えておいてもよいかもしれません。
ナポリの旅行者が、一番動かなかった人に金を渡した話
『怠惰への讃歌』の冒頭では、勤勉が評価される社会への疑問が、一つの逸話を通して示されます。ナポリを訪れた旅行者が、日向で寝そべっている十二人の乞食を見つけ、「この中で一番の怠け者に金を渡そう」と告げます。十一人はそれを聞いて勢いよく飛び上がりましたが、最後まで動かなかった十二人目の男に、旅行者は金を渡しました。ラッセルは、この旅行者の行動を正しいと書いています。
もちろん、これは勤勉な人を否定するための話ではありません。社会では、努力した人や成果を出した人が評価されます。その前提を踏まえたうえで、この逸話は「勤勉は善、怠惰は悪」という前提そのものに、一度立ち止まって考えさせるために置かれているのだと読めます。
ラッセルは「怠けること」を無条件に肯定したわけではない
ここは誤解されやすいところです。ラッセルは、あらゆる怠惰を褒めていたわけではありません。彼は仕事を大きく二つに分けています。物を動かす仕事と、人に物を動かすよう指示する仕事です。前者は大変な割に報酬が低く、後者は楽な割に報酬が高い。さらに、そのどちらよりも尊敬される階級として、自分では働かず、土地や人を貸して収入を得る人々が存在すると指摘します。
ラッセルが批判したのは、この第三の立場です。少数の特権的な人だけが余暇を楽しみ、大多数が過酷な労働を強いられる構造では、社会全体の幸福は上がらない。だからこそ彼は、働く人も管理する人も含めて労働時間の総量を減らし、誰もが十分な余暇を持てるようにすべきだと考えました。目指されていたのは、一部の人の怠惰ではなく、全員の余暇だったのです。
技術が進歩しても、暇にならないのはなぜか
では、技術が発達すれば労働時間は短くなるはずなのに、なぜ私たちは忙しさから逃れられないのか。ラッセルはこの点も分析しています。
たとえば、技術の進歩によって、ある製造業者が以前の二倍の量の商品を作れるようになったとします。仮の例ですが、それなら八時間労働を四時間にしても成り立つはずです。しかし実際には、人々はこれまで通り八時間働き、需要を超える量の商品を作り、値段が下がり、在庫を抱えて倒産し、労働者が職を失うという事態が起こり得ます。技術の進歩が幸福ではなく混乱を生む、と彼は見たのです。
背景には、より高い利益を求める資本家が、できるだけ長く、できるだけ低い賃金で働いてもらいたいと考える傾向がある、という指摘があります。とはいえ、不利な条件でも進んで働きたい人はいません。そこで用いられるのが「労働は美徳である」という考え方です。働くこと自体に価値があると信じられれば、給与や待遇が十分でなくても、自分は良いことをしているという納得が得られる。しかしそれは不満を一時的に抑えているだけで、心身は消耗していく、というのがラッセルの見方でした。
彼は、十九世紀初頭のイギリスでは一人あたりの平日の労働時間が十五時間に達し、子どもでも十二時間働くのが当たり前だったことにも触れています。労働時間の短縮や休日が議論されたとき、上流階級の中には「貧しい人に休日を与えて何になるのか」と反対する声もあったといいます。労働が美徳だと信じられてきた理由として、富裕層が貧しい人々に不満を抱かせないようにしてきたこと、そして技術の進歩がもたらす満足感の二つを、ラッセルは挙げています。
今の自分の生活に置き換えると、何ができるか
ここからは、記事としての提案です。ラッセルが求めたのは社会の仕組みの変更であり、個人の努力で簡単に実現できるものではありません。労働時間や働き方を自分で選べない立場の人も多くいます。そのうえで、日常の中で試せることがあるとすれば、次のようなものです。
- 「何もしない時間」を、予定として先に確保する。空いた時間に休むのではなく、休む時間を予定に入れておくと、罪悪感が生まれにくくなります。
- 休んだときの罪悪感が、どこから来ているのかを書き出してみる。「怠けるのは良くない」という言葉を、誰から、いつ頃、聞いたのかを思い出すだけでも、自分の感覚が自分のものだけではないと気づけます。
- 労働時間を減らす選択肢が、自分の環境にどの程度あるかを確認する。時短勤務、在宅勤務、有給休暇の消化など、使える制度を把握しておくだけでも選択肢は変わります。
一方で、この考え方が合わない場合もあります。経済的に働き続ける必要がある時期は、余暇を増やすことが現実的でないこともあります。仕事に充実感や生きがいを感じている人が、その感覚を否定される必要もありません。休むと逆に不安が強くなる、眠れなくなるという場合は、無理に休みを増やすより、専門家に相談したほうがよいこともあります。
問われているのは「働くか働かないか」ではない
『怠惰への讃歌』の中心にあるのは、働くことの是非ではなく、誰がどれだけ働くかという配分の問題です。忙しさの中で「もっと要領よくやるべきだ」と自分を責めても、構造そのものは変わりません。まず、休むことに感じる罪悪感を、自分の弱さとして処理しないこと。そのうえで、自分の労働時間が本当に適切なのか、誰かの都合で長くなっていないかを、一度眺めてみる。ラッセルの文章は、そのための視点を渡してくれます。