19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヒマラヤ山脈の奥深くに位置するチベットは、大英帝国とロシア帝国、そして台頭しつつあった日本帝国の三国が静かに火花を散らす舞台となっていた。インドの安全を守るため北上するイギリス、南下政策を進めるロシア、そして列強の分割統治から生き残りを図る日本。それぞれの思惑が交錯する中、チベットは単なる「緩衝地帯」ではなく、独自の外交戦略で生存を模索していた。その実態を現地から伝えたのが、僧侶の川口慧海と外務省情報員の成田安平という二人の日本人である。
「グレート・ゲーム」の舞台としてのチベット
イギリスがインド支配を深めるにつれ、ロシアは中央アジアから南下し、両国はアフガニスタンを巡って二度の戦争(第1次・第2次アフガン戦争)を繰り広げた。クリミア戦争を経て一時緩和したかに見えた英露関係だが、ロシアがアフガニスタン北方の諸国を併合すると再び緊張が高まる。1895年にはアフガニスタンを緩衝国として尊重する合意が成立したが、これは同地域に限られた話だった。
勢力争いの焦点は次第にチベットへ移る。チベットは北と東を清、南と西を英領インドに囲まれ、ロシアの影響も及ぶ複雑な地政学的位置にあった。清の衰退、とりわけアヘン戦争(1840年)で欧米列強に対抗できないことが露見すると、チベットは一国に依存せず、複数の列強と微妙な均衡を保つ生存戦略を取るようになる。
イギリスの圧力とチベットのロシア接近
イギリスはネパール、シッキム、ブータンを保護国化し、チベットと直接国境を接するようになった。1888年にはシッキム国境でチベット軍を撃退し、ヤツンまで侵入。チベットおよびシッキムの通商権、ヤツンにおける領事裁判権と英軍駐屯を認めさせた。併合には至らなかったが、その背後には「敵の敵」であるロシアの存在があった。
チベット側もロシア領内の仏教団体を通じて接触を図り、ロシア人僧侶の招聘や軍事近代化支援を受け入れるなど関係を深めた。成田の報告書によれば、ロシア人は常にチベットの機嫌を取る姿勢を見せ、ダライ・ラマ13世に対し「イギリスが難癖をつければ救援を躊躇わない」と申し入れたとされる。一方でチベット人はイギリスの意図を警戒し、ヤツンを貿易場として開放すればさらに内陸への領有を試みると強く懸念していた。
日本の参入と二人の「先駆者」
日本がチベットに関心を持ち始めたのは、日清戦争後の列強による中国分割(ロシアの満州、フランスの広州湾、ドイツの膠州湾、イギリスの雲南)が加速した時期と重なる。東アジアで西洋列強の勢力が増す中、チベットは未だどの勢力にも独占されていない稀有な地域だった。日本は「第4の勢力」として割って入り、他列強の影響力を牽制しようとした。
1900年、川口慧海が仏教修行・研究を名目に、翌1901年には成田安平が外務省情報員としてチベット入りした。それまで情報はもっぱらイギリス経由でしか得られておらず、二人は現地から直接情報をもたらす初めての日本人となった。
経済的価値への着目と市場としての実態
両名はチベットの経済的潜在力にいち早く注目した。川口は羊毛・毛皮・薬材・仏像の輸出を、成田は巨大な銀行の存在を報告している。特筆すべきは日本製品がすでに流通していた点だ。川口はラサの目抜き通り「バルコル」で、大阪土井製のマッチ、絵入り竹すだれ、九谷焼、日本画などが貴族の家々に飾られている様子を記録し、「心なき物品は心ある人間よりも偉い」と皮肉めいた感想を残している。酸素の薄い高地でも着火する日本製マッチは重宝され、美術工芸品も高級品として流通していた。
軍事・政治情報の収集と分析
成田は詳細な軍事・国境情報を入手した。ヤツンには清の税関吏とチベット兵約4500名、清兵約2300名が駐屯し、ラサまで167日ほどの距離にあること。ラサには約1000名の常備兵がおり、レミントン銃を装備するが「臆病で兵隊として価値がない」と評されたこと。チベット人がイギリスを信頼せずロシアに傾斜している実態、そして「現状のままではチベットは結局ロシアの分割に終わるのみ」という将来予測まで記している。
川口もまた、ロシア人僧侶150名以上がモンゴル経由で送り込まれ、うち1名はダライ・ラマと深い信頼関係を築いていることを確認した。仏教僧という立場で長く滞在し、医師としても活動した川口の政治情報は、公式情報員の成田より質量ともに優れていたとされる。
情報戦の遺産と残された課題
二人の活動は、日本政府がチベットを単なる探検対象ではなく、外交・通商・安全保障の観点から分析し始めた契機となった。しかし、その後の日英同盟(1902年)締結や日露戦争(1904-05年)、英露協商(1907年)によって国際環境は大きく変化する。イギリスとロシアがアジアでの利害調整を図る中、日本の「第4の勢力」としての余地は狭められていった。
川口と成田が持ち帰った情報が、日本の対チベット政策や対清外交にどの程度反映されたか、またチベット側が日本にどのような期待を抱いていたかについては、現存する公文書や回顧録だけでは完全には把握できていない。チベットが1913年(民国2年)にダライ・ラマ帰還後に事実上の独立を宣言し、1950年代まで独自の道を歩むことになる過程において、日本の情報活動がどのような意味を持ったのか。さらなる検証が待たれる。
おわりに
チベットを巡る諜報戦は、帝国主義時代の列強競争がいかに文化・宗教・交易の現場に深く食い込んでいたかを示している。川口慧海と成田安平という、立場も動機も異なる二人の日本人が現地で見たものは、単なる軍事機密ではなく、列強の狭間で生き抜こうとするチベット社会のリアルな姿だった。彼らの記録は、今なお続く国境地域の地政学的複雑さを考える上でも、貴重な一次資料として読み返す価値がある。