何かに挑むとき、私たちはつい「どう勝つか」から考え始めます。けれど兵法書『孫子』が最初に置くのは、勝ち方ではありません。まず自分の綻びを消して負けない態勢を整え、相手に隙が生まれるまで待つ。勝敗を決めるのは多くの場合、勝つ側の強さではなく、負ける側が作ってしまった綻びだ、という考え方です。
ここでは、『孫子』に書かれた教えのうち、仕事や日常に持ち込めそうな考え方を四つ取り上げます。原文の解釈には諸説あり、以下はその一つの読み方です。あわせて、そのまま当てはめるとうまくいかない場面にも触れます。
2500年読み継がれてきた背景
『孫子』は紀元前500年ごろ、春秋戦国時代の中国で生まれたとされます。当時、長く中国を支配していた周王朝が弱体化し、各地の有力者が勢力を争い始めました。その争いは500年以上続いたとされ、最終的に秦の始皇帝が中華全土を統一して終止符を打ちます。
誰が書いたかには諸説ありますが、一般には呉の国に仕えた軍事思想家・孫武によるものとされます。
この書の特徴は二つあります。一つは好戦的でないこと。戦国時代の兵法書でありながら、極力戦いを避けようとする意図が含まれています。もう一つは合理性です。当時、戦術や戦略を占いやまじないで決めることがあったとされるなか、孫武はそれでは勝てないと考え、現実を見つめ、国とそこに暮らす人が生き残るための仕組みを作り上げたと伝えられます。
全体は13編。大きく分けると、戦う前の準備、戦略の基本的な考え方、戦略の立て方、情報収集の心得という四つのまとまりになります。一つひとつ暗記する必要はなく、全体の息づかいをつかめば十分です。
原則1 勝つ態勢より、負けない態勢
勝つ態勢とは、勝利の要因を作り込むことです。負けない態勢とは、敗北の要因を消し込むこと。仮の例としてボクシングを挙げるなら、前者はパンチ力を鍛えることに、後者はガードや足運びを磨き、相手のパンチが当たらないように研究することに近いでしょう。
なぜ負けない方が先なのか。勝因は時の運や相手の出方に左右され、自分だけでは決められないからです。実力が拮抗した試合では、決定的なミスをした側が負け、勝つ側はそのミスを突いて勝ちを手にします。つまり勝負の本質は勝因ではなく敗因にあり、敗因は自分たちの努力で消せる。だからまず自軍の敗因は何かを分析し、一つずつ消していくよう説かれています。
試すなら、うまくいかなかった直近の出来事を一つ選び、「相手が強かった」以外の要因を書き出してみてください。準備の不足、連絡の遅れ、睡眠不足など、自分側で減らせるものが見えてきます。
原則2 長引かせない
戦いは人・物・金を大量に消費します。長期化すれば資金は尽き、兵は疲弊し、その困窮につけ込んでライバルが攻めてくる。だからどんな戦いでも素早く切り上げることが大切だとされます。兵法書には、巧みであっても遅いより、粗くても速い方がよい、という趣旨の言葉が残されています。
ただし、この論理をすべてに当てはめるわけにはいきません。時間をかけて育てたい関係や、学び直しのように短期決戦になじまない営みもあります。拙速と丁寧さは、置かれた状況に応じて使い分けるものだと考えるのが現実的です。
原則3 勝利の条件を事前に整える
リーダーとして何かを仕掛ける前に、確認しておきたい五つの条件が挙げられています。
- 戦ってよい時と悪い時を見分けているか
- 大群を投入する場面と少数精鋭で臨む場面の使いどころを心得ているか
- 組織全体の心が一つになっているか
- 準備を整え、相手に隙ができるタイミングを待てているか
- 有能な人に任せたなら、余計な干渉をしないと決めているか
相手を調べるのは当然として、そこで終わらせず、同じ五つの条件で自分側も点検する。これが「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」という考え方につながります。四つ目の条件でいう準備は、チャンスが訪れてからするものではなく、訪れる前に整えておくものです。
原則4 相手を欺く——ただし持ち込む場所を選ぶ
できるのにできないふりをする。必要なのに不必要ふりをする。近づいているのに遠ざかるふりをする。相手に有利だと思わせて油断を誘い、そこを突く。兵法において、勝利は正攻法だけでなく、相手の裏をかくことによってつかむものだとされます。
この考え方をそのまま人間関係に持ち込むと、たいていうまくいきません。信頼を土台にする関係では、情報を隠すことがそのまま関係の損耗につながります。交渉や競争の場面と、そうでない場面を分けて考える必要があります。相手を欺くという原則は、親密さを育てたい相手には当てはまらない場面の方が多いはずです。
「勝つ技術」ではなく「消耗しない技術」
四つの原則に共通するのは、勝ちを誇るより、負けて失うものを小さくするという姿勢です。攻め込む前に守りを固め、長引かせず、条件を整え、出す手を選ぶ。誰かを打ち負かすためではなく、自分が削られないために読む教えだと捉えることもできます。
ただし、これはあくまで比喩としての読み方です。心のつらさや人間関係の悩みを兵法で解決できるという意味ではありません。不安や疲れが長く続く場合には、専門的な支援を検討する方が現実的です。
迷ったときに立ち返る三つの問い
判断に迷ったら、順に問い直してみてください。この状況で自分が消せる敗因は何か。長引かせると、何が削られていくのか。相手を知るのと同じ熱量で、自分側を点検したか。答えは状況によって変わりますし、当てはまらない場面もあります。それでも、勝ち筋を探す前に守りを整えるという順番は、心の余力を保つ助けになることがあります。