はじめに──お彼岸が問いかけるもの
お盆が過ぎ、夏の暑さが和らぐ九月。お墓参りをし、亡き人に手を合わせる方も多いことでしょう。けれど「彼岸(ひがん)」という言葉を辿ってみると、そこは亡き人のためだけの時間ではありません。仏教では、迷いや煩悩の中にあるこちら側を「此岸(しがん)」、その迷いを超えた向こう側を「彼岸」と表してきました。手を合わせながら、今自分はどう生きているのか、何を大切にして、これからどこへ向かうのか。お彼岸には、そんなふうに自分自身を見つめ直す意味も込められているのです。
なぜ西の夕日なのか──古い物語が照らす意味
そして秋の彼岸には、もう一つ大切にされてきたものがあります。西へ沈む夕日です。夕暮れ時、静かに西へ沈んでいく太陽。なぜ東でも南でもなく、彼岸では「西」という方角がこれほど大切にされてきたのでしょうか。その意味を辿ると、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』にお釈迦様の時代の古代インドを舞台とし、深い苦しみの中にいた一人の女性の物語が描かれています。
ここで一つ大切なことがあります。日本のお彼岸は、お釈迦様の時代からそのまま続いてきた行事ではありません。これからお話しする『観無量寿経』の物語も、お彼岸というものの始まりを語った物語ではありません。けれど、お彼岸と西へ沈む夕日がなぜこれほど深く結びついてきたのか、その仏教的な背景を知る上でとても大切な物語が、この経典に残されています。
王宮の崩壊──韋提希夫人の悲劇
舞台は古代インド・マガダ国
舞台は古代インド、マガダ国の王城ラージャグリハ。国を治めていたのは、頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)です。お釈迦様が悟りを開かれた頃から教えに帰依し、祇園精舎を寄進したことでも知られる王です。その妻が韋提希夫人(いだいけふじん)、そして二人の間には阿闍世(あじゃせ)という王子がいました。やがて国を継ぐはずの若者です。
親子を引き裂いた野心
ところが、その阿闍世に影響を与えた人物がいました。提婆達多(だいばだった)です。提婆達多はお釈迦様の弟子であり、またお釈迦様の親族に当たる人物とも伝えられています。しかし後に、お釈迦様と対立するようになりました。『観無量寿経』では、阿闍世が提婆達多の言葉によって、父である頻婆娑羅王を幽閉したと解かれています。
王は牢へ閉じ込められ、臣たちが近づくことさえ禁じられました。父と子、本来なら同じ家族として生きるはずだった二人が、王位を巡って引き裂かれていきます。誰も食べ物を届けることができない。そこで韋提希夫人は、夫をなんとか助けようとします。夫人は身を清めると、麦の粉を練ったものを体に塗り、身につけていた瓔珞(ようらく)という装身具には蜂蜜の搾り汁を忍ばせたと言います。外から見れば王妃が夫に会いに行くだけ。しかしその体と装身具には、夫の命を繋ぐための食べ物が隠されていました。牢の中で頻婆娑羅王はそれらを口にします。
牢の中での出会い──教えが届く場所
そして遠く霊鷲山(りょうじゅせん)の方角へ向かってお釈迦様を拝みました。その上で王は、お釈迦様の弟子であり親しい友とされる目連(もくれん)に戒を授けてもらいたいと願います。すると目連が王の元へ赴き、戒を授けました。お釈迦様もまた、富楼那(ふるな)を遣わして王に教えを説かせたとされています。『観無量寿経』には、こうして二十一日ほどが過ぎ、教えを聞いた王の表情は穏やかになっていったと記されています。
牢から出られたわけではありません。失った王位が戻ったわけでもありません。それでも牢の元へ教えは届いていました。心を向ける場所は、残されていたのです。
母へ向けられた剣──さらなる絶望
やがて、母が父へ食べ物を運んでいることを阿闍世が知ります。阿闍世は激しく怒りました。父を助けていた母にまで、その怒りは向けられます。そして剣を取り、母である韋提希夫人を害そうとしました。その時、家臣である月光(がっこう)と名乗って知られる耆婆(ぎば)が止めました。「王位を求めて父を害した王は昔にもいたけれど、母まで害した王の話は聞いたことがない」そう諫められ、阿闍世は母を害することだけは思いとどまります。しかし韋提希夫人は、宮殿の最も深くへ閉じ込められました。二度と外へ出られないようにされたのです。
夫は今も牢の中にいるけれど、もう食べ物を届けることもできない。会うことさえできない。夫がこの先どうなってしまうのかもわからない。そしてその夫を苦しめているのは、自分が生み育ててきた息子です。その息子は自分にまで剣を向けようとした。夫婦の関係も、親子の関係も壊れ、自分自身も閉じ込められている。韋提希夫人には、自分の力ではどうすることもできないことばかりでした。
釈迦様への叫び──「なぜ私なのか」
『観無量寿経』は、この韋提希夫人の姿を記しています。夫人は悲しみの中で遠く霊鷲山の方角へ向かい、お釈迦様を拝みました。そして涙を流しながら救いを求めます。するとまだ顔を上げないうちに、遠く霊鷲山にいたお釈迦様が夫人の思いを知り、応化(おうけ)に姿を現したと『観無量寿経』は伝えます。
お釈迦様を目の前にした韋提希夫人は、身につけていた瓔珞を外し、地に身を投げるようにして泣きながら訴えました。
「世尊よ、私は一体何の罪があって、このような苦運なのでしょう。そして提婆達多についても問いかけます。世尊はなぜあの提婆達多とこのような縁をお持ちなのでしょうか?」
ここには、とても人間らしい姿があります。この韋提希夫人の口からまずこぼれたのは、整った教えの問いではありませんでした。ただ苦しい。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか。そう訴えています。そして夫人はさらに願います。「憂いも悩みもない場所。どうか私にお示しください。私はもうこの濁った世界を願いません」
息子が悪いからただ息子を変えてください。夫を牢から出してください。自分を応化から逃してください。少なくともこの時、『観無量寿経』に記されている夫人の願いは、そうしたものではありませんでした。この苦しみそのものを超えることのできる場所、教えてほしい。そこまで夫人の心は追い詰められていたのです。
示された浄土──日想観という最初の門
そこでお釈迦様は眉間から光を放ち、様々な清らかな仏の国土を夫人の前に示したと『観無量寿経』は説きます。韋提希夫人はその中から一つの世界を選びました。阿弥陀仏(あみだぶつ)がおられるという極楽浄土(ごくらくじょうど)です。「あの国へ生まれたい」夫人はそう願いました。
ここで一つ疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。これほど頻婆娑羅王からも韋提希夫人からも慕われていたお釈迦様なら、なぜ阿闍世を直接止めなかったのでしょう。父を牢から出し、母を解放するよう説得することはできなかったのでしょうか。実は『観無量寿経』は、なぜお釈迦様が阿闍世を直接止めなかったのか、その理由を説明していません。ですからその理由を私たちの側から一つに決めてしまうことはできません。ただ経典を読み進めていくと、一つはっきりしてくることがあります。お釈迦様は何もしていなかったわけではありません。
先ほどお話ししたように、牢にいる頻婆娑羅王には目連が戒を授け、富楼那が教えを説いていました。そして韋提希夫人が極楽浄土へ生まれたいと願った。その直後です。お釈迦様が微笑まれると、五色の光が放たれ、その光が牢にいる頻婆娑羅王の元へ届いたと『観無量寿経』は伝えています。王は幽閉されたままでしたが、釈迦様を見て、阿那含果(あなかんか)という仏教で高い悟りの段階とされる境地へ進んだと記されています。現実の苦しみが消えたわけではありません。過去の出来事がなかったことになったわけでもありません。けれど、その苦しみの中にいる人へ教えが届いていく。少なくとも『観無量寿経』がここで描いている救いは、現実を力で消してしまうという形だけではなかったように見えます。
十六観法の第一・日想観
頻婆娑羅王は牢の中で教えを聞きました。韋提希夫人も深い宮殿に閉じ込められたのち、お釈迦様の教えを求めました。二人とも体が自由になったわけではありませんけれど、心を向ける場所は残されていました。韋提希夫人はお釈迦様に願いました。「その極楽浄土、どのように思い、どのように感じれば良いのか、教えてほしい」と。その後お釈迦様は、阿弥陀仏と極楽浄土を感じるための様々な方法を説いていきます。全部で十六の観法(かんぽう)があります。その最初に置かれたもの、それが「日想観(にっそうかん)」でした。
日想観、聞き慣れない言葉かもしれません。『観無量寿経』では、西に向かって座り、沈もうとする太陽をよく見るように説かれています。夕日はまるで空にかけられた鉤弦(こうげん=弓の弦)のように見える。その姿を心に留め、目を閉じても目を開けても太陽の姿がはっきり浮かぶほどに観ずる。これが十六観法の第一、日想観です。
ここで一度、韋提希夫人が置かれていた状況を思い出してみます。夫のいる牢へ行くことはできない。息子を変えることもできない。自分自身も応化から出ることができない。どうすることもできないことばかりですけれど、心をどこへ向けるか。そこにはまだ一つの道が残されていました。西へ沈む太陽を見る。極楽にあると解かれた阿弥陀仏の浄土へ、心を向けていく。もちろんこれは現代的な心理療法として解かれた話ではありません。『観無量寿経』では、阿弥陀仏と極楽浄土を観ずる修行として日想観が説かれています。それでも、自分の力ではどうにもならない現実の中にいる人へ、最初に示された観法が、沈んでいく太陽だった。この場面は、長い時を超えてどこか私たちの心にも残るものがあります。
日本のお彼岸と日想観の出会い
では、韋提希夫人の日想観がそのまま日本のお彼岸の始まりなのでしょうか。そうではありません。ここでは経典の物語と、日本で育った行事を分けて考える必要があります。『観無量寿経』には「春分の日に彼岸を営みなさい」「秋分の日に墓参りをしなさい」とは書かれていません。春分や秋分を中心に七日間を彼岸を営むという形は、後の日本で育っていったものです。
ではなぜ日本のお彼岸と日想観が結びついていったのでしょう。そこに「西」という方角があります。阿弥陀仏の浄土は西方にあると解かれます。そして春分・秋分の頃、太陽はほぼ真西へ沈んでいきます。さらに平安時代初期、『観無量寿経』を深く読み解いた円仁(えんにん)という僧侶が現れます。円仁は春分・秋分の頃には太陽が真西へ沈むことに注目し、西方極楽浄土を思う日想観にふさわしい時と解きました。経典の日想観、西方極楽浄土、そして春と秋に真西へ沈む太陽。こうした考え方は、日本でお彼岸と西の夕日が結びついていく背景の一つになったと考えられています。
日本で春と秋に彼岸を営んだ非常に古い記録があります。延暦二十五年、西暦八〇六年、日本平安初期には、諸国の国分寺で春と秋それぞれ七日間、般若心経を写経させた記録があります。この彼岸会については、嵯峨天皇の母の追善に関わるものだったという理解があります。ただしここは少し慎重でなければなりません。この彼岸会が当時から現在と同じ意味で「彼岸」と呼ばれていたのかは明確ではありません。ですから八〇六年に日本のお彼岸が始まりましたと一つの起源に決めてしまうより、現在のお彼岸へと繋がっていく最初期の彼岸会の記録の一つとして見る方が良いかもしれません。そのあと、仏教の教え、極楽浄土への往生、春分・秋分という季節の節目、そして祖先供養という日本の習慣、いくつもの流れが長い時間をかけて重なりながら、現在のお彼岸へと繋がっていきました。
お彼岸という言葉が今、私たちに問うもの
ここで一度、「彼岸」という言葉に戻ってみましょう。今ではお彼岸と言うと、お墓参りや先祖供養を思い浮かべる方も多いでしょう。もちろん先祖を偲び手を合わせることは、日本のお彼岸の大切な営みの一つです。けれど彼岸とは、本来亡き人のためだけにある言葉ではありません。此岸にいる、今の私たち自身にも向けられた言葉です。
自分は何に囚われているのだろう。当たり前だと思っている毎日を、大切にできているだろうか。彼岸という言葉は、静かにそう問いかけてきます。西へ沈む夕日を見るとき、そこには単なる風景以上の何かがあるのかもしれません。韋提希夫人が牢の中の夫のために、そして自分自身のために西の空を見上げたように。私たちもまた、どうにもならない現実の中にあって、心を向ける場所を探しているのかもしれません。
おわりに──心を向ける場所は、ここにある
秋の彼岸、西へ沈む夕日を眺めるとき。それは単なる季節の風物詩ではなく、二千五百年ほど前、インドの王宮で一人の女性が絶望の淵から見出した「心の向け先」と、静かに繋がっているのかもしれません。お釈迦様が最初に示された日想観。それは、動かせない現実の中にあっても、心だけは西方浄土へ向けることができるという、ささやかだけれど確かな道しるべでした。
今年の秋の彼岸には、夕暮れ時に少しだけ足を止めて、西の空を見上げてみてはいかがでしょうか。そこに沈む太陽の向こうに、阿弥陀仏の浄土を思う必要はありません。ただ、「今、自分は何に囚われているのか」「何を大切にして生きたいのか」そう問いかける一瞬を持つだけで、それがあなた自身の日想観になるかもしれません。彼岸は、向こう岸へ渡るための特別な日ではなく、此岸に立つ私たちが、心の向きを確かめ直すための日なのですから。