たとえば、職場でいつも自信に満ちている同僚が、会議の場で小さな言い間違いをした。その瞬間、自分の中に一瞬だけ、後ろめたさを伴う軽さが走る。大きな喜びではない。けれど、確かに胸のどこかがすっとした。そんな経験はないだろうか。
この感情には「シャーデンフロイデ」という名前がある。他人の不幸を見たときに心のどこかにともる、小さな明かりのことだ。そして、この明かりが灯るのは、あなたの心が特別に冷たいからではない。むしろ、人という生き物に備わった、かなり標準的な仕組みだと考えられている。
誰にでも灯る、名前のない明かり
電車の中、職場の休憩室、スマホの画面の向こう。他人のちょっとした失敗の話は、なぜか少しだけ盛り上がる。「あの人、失敗したらしいよ」という一言に、耳がそばだつ。自分でも、ほんの少し前のめりになっているのが分かる。
ドイツ語には、この感情そのものを指す言葉がある。損害を意味する「シャーデン」と喜びを意味する「フロイデ」を組み合わせた「シャーデンフロイデ」だ。日本語には「他人の不幸で今日も飯がうまい」という、身も蓋もない言い方もある。言葉にすると品がないが、それだけ多くの人がこの気持ちに心当たりがあるということでもある。
この感情は大人だけのものではない。小さな子どもでも、ずるをした子が転ぶと笑う。小さな正義感と小さな優越感が、もう芽生えている。ほんの小さな胸の隙間から、はっきりした喜びまで強さはさまざまだが、根は同じだ。他人が下がると、心のどこかが少し軽くなる。
ただ、この感情はあまり口に出されない。言えば性格が悪いと思われる。だから多くの人は、心の中だけでそっと味わっている。口に出せないからこそ、自分だけが意地悪なのだと思い込みやすい。けれど実際には、ほとんど誰もが同じ明かりをこっそり灯している。
脳がご褒美を出す仕組み
では、なぜ他人の不幸は少しだけ嬉しいのか。それは道徳の問題というより、脳の反応として説明できる部分が大きい。
2009年に日本の研究チームが行った実験では、人が妬みを感じるときと、他人の不幸を喜ぶときの脳の働きが調べられた。参加者は、自分と同じくらいの人物や、自分より少し上の人物が出てくる短い物語を読む。自分より成績も暮らしも上の相手を思うとき、脳の痛みを感じるときに働く部分が強く反応した。妬みは、脳にとって痛みに近い信号だという報告がある。
物語が進み、その妬ましかった相手の身に不運が起きる。仕事の失敗、思わぬつまずき。すると今度は、美味しいものを食べたときやご褒美をもらったときに働く報酬の中枢が強く光った。この場所は線条体と呼ばれ、快さの信号を出す脳のご褒美系だ。他人の転落を見た瞬間、そこに確かに明かりが灯る。
しかも、妬みで強く傷んでいた人ほど、相手が落ちたときの報酬の光も強かった。妬みと他人の不幸を喜ぶ気持ちは、別々の感情ではなく、一枚のコインの表と裏のような関係だ。痛みが強いほど、その裏返しの快さも強くなる。
大事なのは、この反応は自分で選んでいるわけではないということだ。喜ぼうと決める前に、脳が先にご褒美の信号を出している。だから、我慢や道徳だけで簡単に消せるものではない。もっと古い体の仕組みが、勝手に反応している。
下を見て安心する心の近道
この明かりの一番奥にあるのは、優越感というより安心だ。自分はまだ下ではない、という安心。人は自分一人では自分の価値が分からない。周りと比べて初めて、自分が上か下かを知る。脳はその物差しをいつも動かしていて、相手が下がれば、物差しの上での自分の位置が相対的に上がる。脳はその上昇をご褒美として記録する。
うまくいかなかった一日、自分にがっかりした夜。そんなときこそ、他人の不運の話がいつもより少し心に染みる。自分より下の人と比べて安心することは、心理学では「下方比較」と呼ばれる。自尊心が傷ついたとき、人は無意識に下を探し始める。
自分が失敗して位置が下がったと感じたとき、物差しを上げ直す方法は二つある。自分が上がるか、誰かが下がるか。自分が上がるには時間も努力もかかる。でも、誰かが下がるのを見るのは、ただそこにいるだけでいい。だから、つい目が伸びる。他人の不幸は、自分を上げずに位置だけを上げてくれる、ずるい近道だ。
ただし、この近道で上がった位置は長くは続かない。相手が下がっただけで、自分は何も変わっていないからだ。明かりはすぐに消える。消えると、また次の下を探してしまう。他人の不幸で心を満たそうとすると、終わりのない探し物が始まる。それは塩水を飲むように、飲むほどにまた乾いていく。
だから、他人の不幸に強く胸がすいたときは、こう考えることもできる。今の自分は、少しだけ下を探したくなるほど疲れているのかもしれない、と。他人の不幸への反応は、相手の問題ではなく、今の自分の状態を映す鏡でもある。
妬みが「ざまあみろ」に変わる瞬間
下を見て安心する心は、上を見上げる妬みと深くつながっている。順調で恵まれていて、少し眩しい人。見ていると理由もなく心がざわつく相手。自分より上の人と比べてしまうことを「上方比較」と呼ぶ。手本になることもあるが、多くの場合、それはちくりとした痛みを連れてくる。その痛みが妬みだ。
妬みには二つの種類があると考えられている。一つは「あの人みたいになりたい」と自分を引き上げる力に変わる良性の妬み。もう一つは「あの人さえ下がればいい」と相手を引きずり下ろす方へ向かう悪性の妬みだ。同じ「羨ましい」という痛みが、自分を上げる燃料になるか、相手の転落を願う気持ちになるか。別れ道は、ほんの少しの向きの違いで決まる。
相手との差が努力では埋まらないほど遠いと感じたとき、人は追いつくのを諦め、相手が下がるのを願い始める。そして、その悪性の妬みを抱えた相手が実際につまずいたとき、長く傷んでいた分だけ、その転落は強い快さに変わる。これが、シャーデンフロイデの一番強い形だ。
妬みが深いほど快さも深い。だから、遠い有名人より、身近な相手のほうが明かりは強くともる。同じ土俵にいて、少しだけ上にいた人。同期や同級生など、立場も似ている相手にこそ、妬みも快さも集まりやすい。
今は、そうした似た相手の順調な姿が、画面の中にいくらでも流れてくる。会わずにいれば比べずに済んだ相手とも、毎日すれ違う。比べる相手が増えれば、妬みの燃料も増え、その裏返しである他人の不幸への快さも、触れる回数が増えていく。
悪性の妬みを少しでも減らすには、二つの見方がある。一つは、相手の全体を見ること。眩しい一面の裏には、その人の見えない苦労がある。もう一つは、羨ましさを引きずり下ろす方向ではなく、追いつく方向へ向け直すこと。同じ痛みなら、自分を上げる燃料に使うという考え方だ。
他人の不幸に胸がすく感覚は、自分の位置を測る古い装置の反応だ。それを知っておくと、感情を抑え込もうとするより、今の自分の状態を点検する手がかりにできる。明かりが強い夜は、誰かを下げたくなっている自分に気づくことから始まるのかもしれない。