65歳から75歳までの10年を、誰にとっても「動ける最後の10年」と決めつけることはできません。80代になっても元気な人はいますし、もっと早く体調に制約が出る人もいます。ただ、今できることが10年後も同じようにできる保証はありません。だからこそ見直したいのが、準備と経験の順番です。
目安として挙げられるのが「3対7」という考え方です。3は将来に備えて暮らしを守るための準備、7は今できる経験や大切な人との時間を実際に生きること。時間やお金を厳密に分ける数字ではなく、人生の重心が準備だけに偏っていないかを確かめるための目安です。そして本題は、割合よりも順番にあります。将来の不安をすべて片付けてから楽しもうとすると、その「いつか」はどんどん遠ざかっていきます。
不安には終わりがない、という前提に立つ
老後の不安は、一つ備えても次の心配が浮かびます。年金は足りるのか、病気になったらどうするのか、家の修繕費は。考えれば考えるほど心配が広がるのは、慎重さがあるからです。慎重さそのものは、暮らしを守るために必要な性質です。
ただ、その慎重さが「条件が全部そろうまでは何もしない」という結論にしかつながらないと、守ってきた時間を使えないまま過ぎていきます。たとえば、こんな仮の例で考えてみます。退職して3年目の男性が、妻と温泉を巡るのを楽しみにしていたとします。ところが退職後は通帳を見る回数が増え、妻に1泊だけでもと誘われても「今年は様子を見よう」と答え、翌年は物価が気になり、その次は車の修理が必要になる。気づけば旅行の話をしなくなっていた、という場面です。
この人が間違っていたのは、貯金を大切にしたことではありません。安心できる条件が全部そろうまで楽しみを始めないと決めていたことです。
お金の順番:やりたいことを先に、金額は後から
旅行の予算を最初に大きく決める必要はありません。まず、どんな景色を見たいのか、誰と過ごしたいのかを話す。そのあとで生活費や必要な蓄えを確認し、無理のない金額と日数に落とし込む。一泊が難しければ日帰りにする、遠くへ行けなければ近くの温泉にする。やりたいことを消すのではなく、やりたいことを残したまま安全な方法を探す、という順番です。
お金には将来の暮らしを守る役割と、今の暮らしを豊かにする役割の両方があります。「旅行を諦めるか、老後の資金を危険にさらすか」という二択ではないところから考え始められます。
健康の順番:土台づくりを目的にしない
健康は、暮らしを支える土台です。毎朝決まった時間に歩き、食事に気を配り、健康診断も欠かさない。それはそれで大切なことです。ただ、土台を作ることだけが目的になってしまうと、その上に何も立てないまま時間が過ぎてしまいます。
仮の例として、こんな場面を考えてみます。友人に美術館へ誘われても「もっと足を鍛えてから」と断り、娘との旅行も「膝が完全に良くなってから」と延期し続ける。買い物にも散歩にも出かけているのに、美術館へ行く方法を一度も考えないまま、頭の中だけで「まだ無理」と決めてしまっている、というケースです。
健康のために歩く。では、その健康で何をしたいのでしょう。好きな場所へ行くため、友人と笑うため、孫と少し遊ぶため、自分の足で日常を送るため。行きたい場所があるならベンチの多い道を選ぶ、移動が負担ならタクシーを使う、長時間が難しければ午前中だけ楽しむ。できない理由を無視するのではなく、できる条件を探します。
体調に制約がある場合
痛みが強いときや、医師から活動を制限されているときは、無理をしないことが優先です。体調が安定しない人は、予約を変更しやすい予定にしておくという選び方もあります。昨日は長く歩けても、今日は疲れている日もある。そんな日は休んでいいのです。3対7は、毎日必ず何割かを活動に使えという命令ではありません。
人の順番:会いたい人を後回しにしない
今使わなければ残せないものに、人と会える機会があります。電話帳に昔の同僚の名前があり、年賀状に「いつか食事でも」と書き続けて5年。いざ電話しようとすると、「急に連絡して迷惑ではないか」「話すことがなかったらどうしよう」と迷います。人に会うには、意外と小さな勇気が要ります。
でも相手にも相手の人生があります。引っ越すかもしれないし、体調が変わるかもしれません。会おうと思ったときに必ず会えるとは限りません。ここで大切なのは、交友関係を広げることではなく、会うとほっとする人、話しておきたい人を後回しにしないことです。「来月、30分だけお茶でもどう」と送ってみる。遠方なら短い電話でもいい。都合が合わなければ別の日にすればいいだけです。
家族の用事と自分の予定を同じ扱いにする
それがなかなかできない人もいます。自分の予定より、家族や周囲の頼みをいつも先にしてきた人です。仮の例として、週末は娘の家の手伝い、平日は地域の役員の用事、空いた日は親戚からの電話。頼られるのは嬉しいし、できるなら助けたい。それでも、習いたかった絵画教室には「家族のことが落ち着いたら」と、いつまでも申し込めないままでいる、という状況です。
家族の暮らしは続きます。困り事も用事も、完全にはなくなりません。必要なのは家族を突き離すことではなく、自分の予定も家族の用事と同じように扱うことです。月に1度の教室なら先にその日を予定表に書き、手伝いを頼まれたら「その日は予定があるので、日曜日ならできる」と伝える。人を大切にする人ほど、自分の時間を使うことに罪悪感を持ちやすいのですが、自分の時間を持つことと家族を思うことは両立できます。
「やりたいことが思いつかない」ときの始め方
そもそもやりたいことなんて思いつかない、と感じる人もいるかもしれません。それも不思議ではありません。長い間、人の予定を中心に暮らしていると、自分の好みを尋ねられる機会が減るからです。
たとえば、退職後に趣味を聞かれても「特にない」と答えていた男性が、散歩中に見つけた小さな写真店で、若い頃に写真を撮るのが好きだったことを思い出す。でも高いカメラを買うかどうかで迷い、機種を調べるばかりで数週間が過ぎる。ある朝ふとスマートフォンで道端の花を1枚撮り、次の日は古い商店街の看板を、その次は雨上がりの空を撮る。写真が上手かどうかより、何を撮ろうと考えて歩く時間が少し楽しくなった、という場面です。
ここにはもう一つの順番が隠れています。準備を完璧にしてから始めるのではなく、安全に試せることなら小さく始めてから必要なことを学ぶ。道具を揃える前に1枚撮る、習い事は正式に申し込む前に体験へ行く、旅行の本を何冊も買う前に行きたい場所を1つ選ぶ。小さく試せば、思っていたほど好きではないと分かることもあります。それも失敗ではなく、自分に合うものを知る経験です。
今日から試すなら
手元のカレンダーを見てください。通院や買い物、家の用事は書かれているかもしれません。では、自分が楽しみにしている予定はありますか。予定の数で幸せは決まりませんが、先の予定を思い浮かべても義務しか出てこないなら、順番を見直す合図かもしれません。
- この1年で一度してみたいことを、1つだけ書き出す
- お金・体・家族との調整という、守るべき条件を確かめる
- 危険がないか不安な点は、必要に応じて専門家に確認する
- 今できる最も小さな形に変える(日帰りにする、短い連絡にする、体験だけ申し込む)
- 実行するための最初の行動を1つ決める
7が先、3は後と言っても、危険を確かめる前に無理をするという意味ではありません。まず行きたい毎日を思い描き、そこから必要な備えを組み立てる。そういう順番です。毎週出かけなくても構いません。1か月に1つ、心待ちにできることがあるだけで、ふつうの日の見え方は少し変わります。
当てはまらない場合もある
介護や治療の真っ最中で、自分の時間どころではない時期もあるでしょう。体調や家計の事情で、今は動くより備えることを優先したほうがいい場合もあります。この考え方は、置かれている状況を無視して行動を増やすためのものではありません。準備と楽しみは、どちらかを犠牲にする関係ではなく、同じ人生の中に並べて置けます。10年後の自分を守るための備えを続けながら、今日の自分が心待ちにできる予定を1つだけ残す。その順番の入れ替えから始めてみてください。