抽象化が暮らしで役立つ場面
たとえば、あるレストランではすべての料理を最後に料理長が確認しています。客が少ないうちは味が安定しますが、注文が増えると料理長の前に皿が並び、厨房全体が滞ります。別の例として、あるサービスではすべての処理が1台のサーバーに集まっています。利用者が少ないうちは管理しやすいものの、アクセスが増えると処理が追いつかず、サービス全体が重くなります。
厨房とサーバーはまったく違う話に見えますが、実は同じことが起きています。処理を1か所に集めると最初は連携しやすいが、規模が大きくなるとそこに待ち時間が生まれ、中心が止まれば全体も止まる。固有の名前や細かな事情を外し、共通する関係を残すと、別の場所でも使える知識になります。
仕事で問題が起きたとき、過去の経験や知識と比べて「これと同じ構造ではないか」と考える人は、初めて見る問題を本当に初めてのものとして見ていません。経験や知識を、以前どこかで見た構造と重ねているのです。
今日からできる「似ている構造を探す」手順
抽象化をいきなり練習しようとすると、賢そうな言葉を作る作業になりがちです。そうではなく、離れた出来事の間に同じ仕組みを見つける遊びに近づけるのが負担の少ない入り方です。
- 気になる出来事を一つ選ぶ。ニュースでも職場の出来事でも、妙に引っかかったものをメモする。
- その横に、似ているものを一つ置いてみる。別の業界、家庭、学校、趣味の場面など、表面が違うものを選ぶ。
- 「何が同じように動いているか」を一文で書く。人物名や固有名詞を外し、「〜が1か所に集まると、最初は楽だが、増えると滞る」のような関係だけを残す。
- その一文が別の場所でも説明できるか試す。もし別の出来事にも当てはまるなら、その抽象化には価値があります。
たとえば、会議で一人の社員が上司に笑われ、出しかけた意見を引っ込めた場面を「権力の差によって情報共有が止まった」と言い換えると、会社だけでなく家庭や学校でも似たことを見つけられます。ただし、この言い換えでは社員の顔や感情は消えてしまいます。抽象化は使える範囲を広げる代わりに、感情が捕まる部分を削りやすい。だからこそ、最初から完璧な抽象化を目指さず、具体的な場面を一つ残したまま「これとあれ、どこが同じだろう」と考えるのが現実的です。
合わない場合の代案
抽象化を面白いと感じるかどうかには個人差があります。無理に共通点を探そうとして疲れる場合は、抽象化を「考えるための道具」として使うより、具体的な事例を記録しておく方法が合うかもしれません。
- 似た出来事をノートやメモに並べて書くだけにし、無理に共通点を言語化しない。
- 「あのときの対応」を具体的な場面ごとに残し、必要なときに参照する。
- 抽象的な説明が苦手な人と話すときは、先に具体例を一つ出してから「他の場所でも同じことが起きていないか」と問いかける。
抽象化ができることと、抽象化を面白がれることは少し違います。得意でなくても、経験を使い捨てにしない工夫はできます。
抽象を面白がるとはどういうことか
数学者の中には、数式を見て美しいと感じる人がいます。2014年に行われた小規模な研究では、数学者15人に数式を見せて美しさを評価してもらいながら脳活動を調べたところ、美しいと評価された数式ほど、視覚芸術や音楽の美しさに関わる領域の活動と対応していました。15人を対象とした研究なので、この結果だけで一般化はできません。ただ、専門家にとって抽象的な数式が感情を伴う対象になり得ることは示されています。
数学者は記号の形だけを眺めているわけではなく、短い式の向こうに、そこから説明できる大量の事例を見ているのかもしれません。別々に存在していた事実が一つの関係でまとまり、複雑に見えていたものから余分な部分が消える。私たちにも近い経験があります。ずっと理解できなかったことが、ある説明を聞いた瞬間に「あ、そういうことだったのか」とつながる感覚です。
2020年の研究では、文字を並べ替えて答えを見つける問題を解いてもらい、突然答えが浮かぶ瞬間には、何かを得たときの喜びに関わる脳の反応が強く出ることがありました。つまり、分からなかったものが突然つながること自体が、ちょっとしたご褒美になる可能性があります。抽象を面白がるとは、バラバラだった世界がつながる瞬間を気持ちいいと感じることなのかもしれません。
20世紀の数学者アレクサンドル・グロタンディークは、難しい問題が出てきたとき、その問題だけを力づくで解こうとするのではなく、周囲の理論を育てて海面そのものを上げるという例えを使いました。海面が上がれば、それまで通れなかった岩場を船がそのまま通れるようになる。これは数学だけの話ではなく、目の前の問題を何度も生み出している場所を見つけるために抽象化を使う考え方です。
抽象化は、現実から離れるためのものではありません。違って見える出来事を、前より正確に見られるようにするためのものです。まずは、ニュースや職場で妙に気になる出来事があったら、「これと同じ構造は他にどこで起きているだろう」と一つだけ考えてみる。その小さな問いが、昨日まで別々に見えていた出来事をつなぐ入口になります。