「優しくない自分」に決定権を渡さない小さな練習
優しい人でも腹が立つことはありますし、嫉妬することもあります。疲れていれば自分のことで精一杯になるのも自然です。その感情が一度でも浮かんだら優しくない人になるのだとしたら、優しさは生まれつきの気質だけで決まってしまい、努力する余地がなくなります。しかし人間関係で問題になるのは、心の中に一瞬何が浮かんだかだけではありません。その怒りをどう使ったか、面倒だと思った後に結局どうしたかが問われます。
アリストテレスは、良い行動を繰り返すことで人は少しずつ良い人になっていくと考えました。人格は心の奥に最初から完成している何かではなく、似た場面で何を選んできたかによって作られていきます。自然に思いやれる人に元々の気質としての優しさがあることは否定できませんが、自然にできない人が毎回少し踏みとどまりながら優しい行動を選ぶことを、すべて偽物と片付けるのも違います。
日常で試しやすい順番は、次の3つです。
- 感情が出たら、すぐに返事や態度へ変えず、一呼吸おく。
- 「自分はどういう人でいたいか」を短い言葉で確認する。たとえば「雑に扱う人にはなりたくない」。
- その基準に沿って、できる範囲の行動を一つ選ぶ。全部を引き受ける必要はない。
これは感情を抑圧するための手順ではありません。怒りや疲れをなかったことにせず、相手への扱い方を選ぶためのものです。体調や心の余裕がない日は、休むことや助けを求めることも選択肢に入ります。
優しさと「相手の機嫌を守ること」を分ける
嫌われたくないから何でも引き受ける、本当は傷ついていても笑って許す、相手が間違っていても自分から謝る。これは優しさというより、拒絶されないための行動になっていることがあります。優しい人とは、相手を一度も不快にさせない人ではありません。必要なら断るし、間違っていることは指摘します。このまま一緒にいれば互いに傷つくなら距離を置くこともあります。その結果、相手を不快にさせることもありますが、曖昧な態度で期待を持たせ続けるより、はっきり伝えたほうが優しい場合もあります。
頼まれたときは、「今の自分にできるか」「相手を大切に扱うために何が必要か」を分けて考えます。できないことは断る。断ることも、相手を一人の人間として扱うことにつながります。断るのが怖いと感じるときは、その恐れが「相手を思って」ではなく「嫌われたくない」から来ていないかを確認してみてください。もし人間関係で繰り返し我慢しているなら、優しさの問題ではなく境界線の問題として、信頼できる第三者や専門機関に相談する選択肢もあります。
演技と利用の違いを確認する
優しいふりをして相手を利用することと、優しくありたいから自分を抑えることは同じではありません。人を信用させるために親切にし、後から要求を通す場合、相手は大切にされているのではなく、自分の目的のための道具として扱われています。ここで考えたいのはそういう人ではなく、本当は面倒でも「この人を雑に扱う人間にはなりたくない」と考え、自分を少し制御する人のことです。
見返りがなくても続ける、誰も見ていないところでも弱い立場の人にだけ態度を変えたりしない。そこまで続いているなら、それは単なる外見ではなく、その人が選んだ生き方だと言えます。時々、「この行動は相手を大切にするためか、自分の利益や評価のためか」を確認してみてください。完全に純粋でなくても、相手を傷つけないための選択を続けているなら、それを偽物と決めつける必要はありません。一方で、相手を利用している自覚があるなら、それは優しさとは別の問題として扱う必要があります。
本人にとっては演技だったとしても、助けられた側にとっては、かけられた言葉や差し出された手は現実に起きたことです。結果さえ良ければ動機は何でもいいわけではありません。しかし、相手を傷つけないために長い間自分を律してきた人を、気質として優しい人より劣っていると決めつける必要もありません。優しくない自分が出てくるたびに、そちらへ行動の決定権を渡さなかった。その長い選択の積み重ねを、人格と呼ばずに何と呼べばいいのでしょうか。