偶然の中に自分の手を探す
1960年代、アメリカの社会学者がタクシー運転手たちのサイコロ賭博の輪に加わった。運転手たちには決まり事があった。小さい目が欲しいときはそっと転がし、大きい目が欲しいときは強く投げる。サイコロの目は投げる強さでは変わらないのに、彼らは自分の手が目を動かしていると感じていた。
くじでも同じようなことが起きる。1975年の研究では、自分でカードを選んだ人は、渡された人より四倍近い値をつけた。自分で選んだくじは当たりそうに感じる。ただし2021年に十七の実験、一万人余りで確かめ直すと、選ぶこと自体が錯覚を作るのではなく、もともと「当たりやすいものがある」と信じている人が、そのくじを選んでいた可能性が高いという。日本の調査でも、番号を自分で選べて結果がすぐ出るくじは、ギャンブルの問題が疑われる人ほどよく買っていた。これは買う人と買うくじが重なっている記録で、選べるくじが問題を生んだかどうかまでは分からない。
サイコロを投げる強さ、選ぶ番号、手放さないこと。人は偶然の中に、自分の手が届く場所を探してしまう。
流れを読む癖は森では役に立った
ルーレットの防犯カメラ映像を十八時間分、九百回以上の回転と百四十人近くの賭けを書き起こした研究がある。出た目はほぼ均等に散らばっていた。ところが、同じ側が六回以上続いたあとの賭けのおよそ八五%は、反対の側に置かれていた。そろそろ次は反対が来るはずだ、という思い込みだ。ボールに前の回の記憶はないから、確率は変わらない。
面白いのは、この思い込みが強い人ほど、勝ったあとに賭けを増やす「今の自分はついている」という思い込みも強かったことだ。逆向きに見える二つの考えは、偶然の並びの中に流れを読もうとする同じ癖から伸びている。
猿を使った研究では、当たりが固まって続けてくる並びのときの方が、バラバラに散らばる並びより上手に選んだ。研究者たちの説では、森の木の実や虫は一か所に固まっていることが多い。一つ見つけたら近くにまだある。続くと期待する方が生き残るには有利だった。これは三匹の猿の結果と、なぜそう選ぶのかについての一つの考えだ。それでも、霊長類が偶然の並びに流れを見るという結果は、人の研究と重なる。森では役に立つ癖が、前の回を覚えていないボールの前では逆に働く。
負けの痛みが次の一回を呼ぶ
人は得る喜びより、失う痛みの方をおよそ二倍重く感じる。負けたあとの人には、負けを取り返せる見込みのある賭けが、とりわけ魅力的に見える。負けた分を取り返したい。その気持ちが次の一回を呼び、次の日を呼ぶ。
2013年、アメリカ精神医学会の診断の手引きで、ギャンブルの障害はアルコールや薬物と同じ依存の章へ移された。何かを体に入れなくても依存は起きる、と認められた初めての病気だ。脳の画像研究では、負けを追うと決めたときはご褒美を期待する場所が働き、やめると決めたときは不安や迷いに関わる場所が働いていた。続けることには期待があり、やめることには不安がある。負けている最中に席を立つのは、見た目よりずっと重い決断なのだ。
かけ続けた人の脳では、勝ったときのご褒美に関わる場所の働きが弱く、重い人ほど弱かったという報告もある。同じ価値では前ほど心が動かないから、もっと大きくかけるようになる。アルコールや薬物で知られてきた変化と似た形だ。また、当たりのすぐ隣で止まる「惜しい外れ」を見たときの脳の反応は、ギャンブルの問題が重い人ほど強かった。勝ったときの反応は重さと関係がなかった。ただし、かけ続けたから脳が変わったのか、元々反応の違う人がのめり込みやすかったのかは、これらの画像だけでは分からない。
偶然に流れを読み、負けを取り返そうとする心の動きは、誰の内側にもある。それが病的な形になるかどうかは、置かれた環境や脳の反応の違いによって変わる。知っているだけでは席を立てないのも、無理はない。「次は反対のはず」という感覚は、ボールの記憶ではなく、自分の期待が作り出している。そのことに気づくだけでも、手を止めるための小さな距離になるかもしれない。