長い夜を敵と決めつけない
ヒルティは、不眠が必ずしも完全な害悪とは言えない、という見方も示しています。大きな喜びで心が震えて眠れない夜は、人生でも指折りの時間かもしれません。日ごろ後回しにしている内面と向き合うために与えられた静かな夜も、悪いものとは限らない。そう考えると、眠れないこと自体への焦りが少しやわらぎます。
ただし、これは不眠を勧める話ではありません。睡眠不足が心身の不調と関連することは広く知られています。眠れない状態が長く続き、日中の仕事や家事、気分に支障が出ているなら、気合いで乗り切る領域ではなく、医療機関や相談窓口に頼る領域です。
意識を外へ向ける、具体的な選択肢
では、眠れない夜には何をするのか。ヒルティが挙げているのは、心から信じている人と語ること、そして良い書物に頼ることです。本は全部読む必要はなく、短い一節だけでもよいとされます。その一文が別の思考を呼び、悩ましい考えから意識をそらしてくれることがあるからです。
- 安心できる人に、短く今の気持ちを話す
- 本は一節だけ開いて、そこから離れる
- 就寝前に難しい仕事や、興奮させる遊び、飲み食いを控える
仮の例として、仕事の締め切りが気になって寝つけない夜、明日の段取りを頭の中で組み立て直すのをやめ、信頼できる同僚に「少し不安で」と一言だけ送ってみる。返事を待つ間に気持ちが少し軽くなり、考える対象が自分の内側から外へ移る、という流れです。効果を保証するものではありませんが、試す価値のある選択肢の一つではあります。
内省が合う人もいる
一方で、就寝前に日記を書き、その日の自分を振り返ることで心を落ち着けていた皇帝がいたとも言われます。マルクス・アウレリウスです。内省が不安を助長する人もいれば、考えの整理につながる人もいます。ヒルティが自分と対話することを戒めたのは、あくまで眠れない夜に思考が不安の方向へ転がりやすい人に向けた提案だと読めます。自分に合うほうを選べばよいのです。
人づきあいの消耗を減らす視点
同書には、眠る前の心を重くする人間関係についての記述もあります。幸福なときだけ近づき、こちらが不幸になると去っていく人と、愛想はよくないが見捨てない人。前者と深く関わることを避け、後者を大切にする。単純な基準ですが、夜に人間関係を反芻してしまうときの物差しになります。
侮辱されたときの憎しみについても、ヒルティは、憎しみを育てることは相手よりも自分の心を汚すと述べています。許せても忘れられないなら、中途半端な許しを装うより、自分に時間を与えるほうがよい、という考え方です。嫉妬や見栄を手放せたとしても、今度は軽蔑や傲慢が顔を出す。人の心の課題は入れ替わり立ち替わり現れるという指摘は、自分だけが未熟なのだと思い込まなくてよい、という受け取り方もできます。
自分の頭で考えるという備え
ヒルティは、社会が嘘にまみれているとも書いています。人が悪気なく事実でないことを口にし、都合の良い情報を真実と思い込む。だからこそ、嘘と真実を見分ける感覚が必要だとされます。誤った意見はそれほど多くない、多くの人は自分の意見を持たず他人の意見で満足している——イギリスの哲学者ジョン・ロックの言葉として、そんな趣旨の一節が引かれています。
自分で考える習慣は、夜の不安にも関わります。他人の評価や世間の噂をそのまま抱えていると、布団の中で反芻する材料が増えていくからです。逆に、自分の意見として一度噛み砕いたことは、夜中に突然ふくらみにくくなります。
それでも眠れないときは
夜の過ごし方を工夫しても、眠れない日はあります。床について20〜30分たっても眠気が来ないなら一度布団を出て、暗い部屋で静かに過ごす、という対処が一般に知られていますが、これも万人に合う方法ではありません。不安や落ち込みが強い、動悸や痛みがある、薬を服用している、といった場合は、自己流の工夫より先に専門家へ相談してください。
ヒルティの提案の中心は、眠れない夜を無理に戦わず、意識を外へ向け、良い思想に触れた状態で休息に入る、という一点にあります。今夜できることが一つあるとすれば、自分を問い詰める代わりに、安心できる人の言葉か、心を静める短い一節を選ぶことかもしれません。