物事に白黒つけたい、はっきりさせたい。そう思うのは、世界を理解するための自然な働きです。ところが、その働きだけで全部を片づけようとすると、こころは少しずつ疲れていきます。鈴木大拙が東洋的な見方として示した「無分別智」という考え方は、この疲れの正体を考える手がかりになります。
ここからは、鈴木の著書で紹介されている考え方を軸にしながら、日常の感覚に引きつけて整理していきます。思想の説明と、そこから受け取った解釈は、できるだけ分けて書きます。心理的な効果を保証する話ではないことも、先に書いておきます。
「分ける」ことには、功績と副作用の両方がある
鈴木は、西洋では物事が二つに分かれたところから考え始めるのに対し、東洋ではまだ二つに分かれていないところから考え始める、という対比を用いています。主観と客観、善と悪、勝者と敗者。こうした二分性の上に立って世界を捉えるのが西洋的な思考だ、という整理です。
分けることは、分かることでもあります。複雑なものを分類し、区別し、名前をつける。その作業があったからこそ、自然科学も哲学も発展してきました。この点を鈴木も認めています。問題は、その考え方を人間や社会のすべてに当てはめようとしたときに起こります。
割り切れないものが、こぼれ落ちる
政治の争点が右と左、保守とリベラルという一本の軸で語られるとき、そこに収まらない意見は見えにくくなります。人を「役に立つ」「役に立たない」で仕分けるとき、その人の事情や背景は切り捨てられます。白黒つけられない曖昧なもの、どちらにも分類しきれない人が、機械的に排除されていく。鈴木は、二分性の論理が抱えるこうした弱さを指摘しています。
「分別」が苦しみを生むとき
仏教では、この分ける働きを「分別」と呼び、それが苦しみのもとになると見ます。少し意外に感じるかもしれません。分別がある、というのは普段は褒め言葉です。物分かりがよく、道理が分かっているという意味で使われます。
けれども分別は、自分と自分以外を切り分けることでもあります。切り分けるほど、「自分」という意識、「自分のもの」という意識は強くなります。自意識が過剰になれば、他人と比べて落ち込む場面が増えます。所有意識が強ければ、それを失ったときの痛みも大きくなります。苦しみの正体は、区別そのものではなく、区別によって自分を縛ってしまうところにある、という見方です。
無分別智は、分別を捨てる話ではない
そこで出てくるのが「無分別智」です。名前だけを見ると、分別を持たないこと、何も考えないことのように響きます。しかし鈴木の説明はそうではありません。分別を持ちながら、それに固執せず、万物を一体として捉える心のあり方を指します。
その雰囲気を伝える一節として、花を知りたければ自分が花になることだ、という趣旨の言葉が紹介されています。花になって花を開き、花になって光を浴び、雨に打たれる。そこまでして初めて、花はあなたに語りかける、という流れです。
これは、対象を外側から眺めて分類するのをやめ、その立場に身を置いてみる、という方向の話として読めます。人を評価する側に立ったまま理解しようとするのではなく、その人の位置まで降りていく。記事としての解釈を添えるなら、そういう構えの変更ではないかと思います。
日常で試せる、小さな構えの変更
ここからは、この考え方を日々の場面に置き換えるための提案です。効果を約束するものではなく、合うかどうかは人によります。
- すぐに結論を出したくなったとき、いったん「どちらでもない」言い方を探してみる。賛成か反対かではなく、どこに引っかかっているのかを言葉にする。
- 判断を保留する時間を、あらかじめ決めておく。一晩置く、翌朝に決める、といった具合です。
- 迷ったときは「自分はどちらの側か」ではなく、「何が起きているのか」を書き出す。分類の前に、出来事そのものを見る感覚を取り戻す助けになります。
一方で、この構えが向かない場面もあります。安全に関わる判断、締切のある仕事、契約の可否など、すぐに白黒つける必要がある場面では、二分する力のほうが役に立ちます。曖昧さを保つことが、ただの先延ばしになってしまう人もいます。分ける力と、分けずにおく力は、どちらか一方を選ぶものではなく、場面で使い分けるものだと考えるほうが現実的です。
割り切れなさは、欠点とは限らない
鈴木の人柄について、親友だった哲学者の西田幾多郎が残した評が紹介されています。高い山が雲の上に頭を出しているような人で、作意がない。何もないところから物事を見ている。その考え方が冷静に見えても、奥底には深い人間愛の涙をたたえている、という趣旨の言葉です。
ただ、これは一人の人物に向けられた評であって、目指すべき理想像として背負う必要はありません。実際、悟りを開いたとされる人でも、親友の死には玄関先に倒れ込むほど悲しんだ、という逸話も紹介されています。感情を消すことが目的ではないのです。
白黒つけられない自分を、優柔不断という欠点として処理してしまう前に、それは世界を雑に扱わないための感覚かもしれない、と考えてみる余地があります。もちろん、それで現実の締切や責任が消えるわけではありません。両方を抱えたまま、そのときどきで傾きを選んでいく。そのくらいの構えで十分ではないでしょうか。
次に何かを決めなければならなくなったとき、反射的に白黒をつける前に、数秒だけ「まだ分けなくてもいいか」と問いかけてみる。それで答えが出ないこともありますが、問いかけたこと自体が、自分を追い詰めないための小さな余白になります。