職場で起きている「自分を作り替えようとする動き」
具体的な場面を考えてみる。仮の例として、会議でうまく発言できなかった夜、「もっとできる人間にならなければ」と自分を責めるとする。このとき、頭の中では「もっと成長しろ」「もっと認められろ」という声が騒いでいる。禅の考え方では、その声は必ずしも自分自身の声ではない。世間の基準や親の期待、他人の目が、頭の中で騒いでいるだけかもしれない。
選べる対応はいくつかある。
- その「もっと」が、自分の望みなのか、他人の物差しなのかを分けてみる。たとえば「本当は休みたいのに、評価のために無理をしていないか」と問う。
- 今の自分にできることを一つだけ選ぶ。すべてを変えようとせず、明日の会議で一言だけ発言する、といった小さな行動に絞る。
- 相手の期待が強すぎると感じる場合、心の中で「これは相手の物差しだ」と区別する。物理的な距離を取れるなら、少しだけ関わる時間を減らす選択もある。
ただし、相手から攻撃や支配を受けている場合は、禅の考え方で我慢を続ける必要はない。安全を優先し、信頼できる人や相談窓口につなぐことが先になる。
坐禅は「何かを得るための道具」ではない
坐禅を「心が落ち着く」「人間性が向上する」といった見返りのために座るのは、禅の考え方では本末転倒とされる。坐禅は何かになるための秘密の方法ではなく、ただ座ることだ。何者にもならずに座る。すると、飾りも見栄もない、剥き出しの自分と向き合うことになる。それは楽な体験ではなく、怖いと感じることもある。
実際に坐禅を試すなら、得を求めない時間として、1日5分ほど静かに座ってみる選択がある。呼吸に意識を向け、雑念が浮かんでも追いかけない。これは禅の一部の考え方に沿った練習であり、効果を保証するものではない。合わないと感じたら、無理に続けなくてもいい。
「何者にもなるな」は働くなという意味ではない
「何者かになろうとするな」という言葉は、働くな、向上するなという意味ではない。肩書きや成果を完全に無視して生きることは、現実には難しい。生活のために働き、評価を受けることもある。禅の考え方で問われるのは、その肩書きや評価を「自分の正体」にしないことだ。
たとえば、上司に「資料が遅い」と言われたとする。仮の例として、事実として遅かった部分は認めて改善する。しかし、「自分はダメな人間だ」とまで広げない。叱られた音を聞き、そこに「こんな自分ではいけない」と付け加えない。これは練習が必要で、すぐにできるとは限らない。
人間関係で「何者か」を演じるのをやめる
人間関係でも、嫌われないように自分を飾ったり、相手の期待に応えようと背伸びしたりすることがある。それも「何者かになろうとする動き」の一つだ。仮定の伝え方の例として、無理な頼まれごとをされたとき、「今の私にはその役割は引き受けられません」「少し時間をもらえますか」と伝える方法がある。これは相手を拒絶するためではなく、自分の限界を正直に示すための言い方だ。
ただし、相手との関係や職場の立場によっては、こうした言葉を伝えにくい場合もある。そのときは、心の中で「自分はこの役割そのものではない」と区別するだけでも、少し負担が変わることがある。相手が支配的だったり、攻撃的だったりする場合は、距離を取る、第三者に相談するなど、安全を優先した対応を選ぶ。
今日をまっすぐ生きるとは
禅の言葉に「人間が最後に問われるのは、自分は何者であったかではなく、自分をごまかさずに生きたかどうかだ」という趣旨のものがある。特別な自分になることではなく、今の自分を引き受けること。それが、他人の物差しの上ではなく、自分の足で立つことにつながる。
無理にすべての看板を捨てる必要はない。できる範囲で、看板と自分を分ける練習から始められる。今日、何者かになろうとするのを少しやめて、ただ目の前の仕事や食事や休息を引き受けてみる。それは骨が折れるが、嘘がなく、自由に近づく道かもしれない。