人口動態に見る王朝交代のパターン
紀元前200年からの中国の人口推計グラフに各王朝の成立時期を重ねると、王朝が交代する時期に人口が急減し、新王朝の成立とともに回復に転じるというパターンが繰り返し現れる。秦・漢の交代、隋・唐の成立、五代十国から宋への移行、元から明、明から清への交代期など、多くの転換点で同様の動きが確認できる。では、この大きな変化を何が引き起こしたのか。
気温・収穫・飢饉・一揆の相関関係
過去二千年間の気温・穀物収穫量・飢饉記録・農民一揆のデータを統計的に分析した研究がある。それによると、気温は穀物収穫と正の相関、飢饉・一揆とは負の相関を示す。つまり気温が高いほど収穫が良く、飢饉や一揆が少なかった。しかし、気温→収穫→飢饉→一揆という因果の連鎖をたどるにつれ、相関は弱まっていく。気温と収穫の関係は強いが、収穫と飢饉、飢饉と一揆の相関は統計的に有意でないか、係数が小さい。
このことは、気温低下が収穫減を招くことは確かだが、収穫減が即座に飢饉や社会不安を引き起こすわけではないことを示唆している。飢饉の主因が必ずしも収穫減だけでなく、人口増加による一人当たり食料の減少(マルサスの罠的な状況)や、政府の備蓄放出・年貢免除といった対応の善し悪しにも左右されるためだ。実際、1743年(乾隆期)の北部大干ばつでは迅速な穀物輸送で深刻な飢饉を防いだが、清末には戦争で疲弊した政府が対応できず多数の餓死者を出した。
時代とともに低下した気候脆弱性
さらに興味深いのは、時代を経るにつれて人々が気候変動の影響を受けにくくなったという指摘だ。1290年を境に前後で気温と収穫の回帰直線を比較すると、後世の方が傾きが緩やかで切片が高い。つまり同じ気温でも後世の方が収穫が良く、気温変動の影響も小さかった。理由として、農業技術の向上、ジャガイモなど耐寒作物の伝来、農地が黄河流域から長江流域へ拡大し温暖な気候下で生産できるようになったことなどが挙げられる。
気候と戦争――10〜15年のタイムラグ
気温と戦争頻度の関係も分析されている。寒冷期には温暖期の2倍以上の戦争が発生し、最低気温と戦争数には負の相関がある。しかし、気温低下と戦争勃発の間にはタイムラグがある。同年より10〜15年後に相関がピークに達し、その後弱まる。これは備蓄により数年は耐えられるが、長期的な寒冷化で備蓄が尽き、食糧難が深刻化して紛争が増えるためと考えられる。収穫減→即飢饉・即戦争ではない点は、飢饉のメカニズムと共通する。
遊牧民の南下というもう一つの経路
農耕民だけでなく、遊牧民も気候変動の影響を強く受けた。草原の牧草が寒冷化・乾燥化で育たなくなると、遊牧民はより温暖な南方へ移動せざるを得なくなる。そこでは農耕民と衝突し、時に侵略・王朝建設へとつながった。歴史的に見れば、匈奴・鮮卑・突厥・モンゴル・女真など北方遊牧勢力の南下は中国王朝の存亡に大きく関わった。気候変動は農耕社会と遊牧社会の双方を圧迫し、その衝突を誘発する構造的要因だったとみられる。
単一要因への還元を避ける
以上の分析から、気候変動が王朝交代の一因であったことは強く示唆される。しかし、気温→収穫→飢饉→反乱→滅亡という単純な因果鎖で説明できるほど単純ではない。政府の対応能力、人口圧力、技術革新、遊牧民との地政学的関係など、複数の変数が相互作用した結果として王朝の興亡がある。気候は「引き金」たり得ても、「唯一の原因」ではない。過去の事例を現代の気候変動対策に活かす際も、制度的強靭性や技術的適応の重要性を併せて考える必要があるだろう。