アジャセ王の救済 罪と共に光の中を歩む
仏教物語

アジャセ王の救済 罪と共に光の中を歩む

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父を殺めた王、仏の前に立つ

マガダ国の王アジャセは、父ビンビサーラ王を幽閉し、ついには命を奪ってしまった。王位への渇望に駆られ、煩悩に支配されて犯した不可逆の罪。その重みは夜ごと王を苛み、地獄への恐怖が昼も夜も離れなかった。

そんな折、名医ジーヴァカの導きで、王は五十万の民を従え、霊鷲山(りょうじゅせん)へと向かう。サーラ樹林の奥、黄金の光を放つ如来の姿があった。仏の一声「アジャセよ」が響いた瞬間、王の胸を覆っていた疑いの雲が、音もなく晴れていく。震える足で進み出て、深く頭を垂れる王の声は涙に震えていた。

二十一の観門(ぼんのう)──心に留めるべき真実

仏は王を座らせ、静かに語り始められた。それが「二十一の観門(ぼんのう)」──心に止めておくべき二十一の事柄である。

  • 我々の体は空(くう)である
  • 我々には無常というものがかけている
  • 我々の命は真の命ではない
  • 我々は迷いの穴に落ちている
  • どのような方法で物を見るべきか
  • 因(いん)によって物を見るべきか
  • 苦であって楽ではない
  • 様々な難義を立つことができない
  • 常に恨みに追われている
  • 一つとして生死会(しょうえ)から逃れる方法を持っていない
  • 地獄・餓鬼・畜生道から永遠に遠ざかることができない
  • 様々な悪い考え・邪見を持っている
  • まだ悪法の荒波を乗り切ることができない
  • 生死に果てがあるのかわからない
  • 努力しなければ法(ほっぽう)は得られない
  • 自分が作った業を他人が受けることはない
  • 楽の因を作らなければ楽の果はない
  • 因があれば果も必ずある
  • 我々が生まれる原因は煩悩で、また煩悩によって死を招く
  • 過去・現在・未来を通じて常に自分勝手なことを行っている

「大王、以上の二十一の事柄は、凡夫(ぼんぷ)が常に考えていなければならないことだ。この二十一のことが分かれば生死を離れることができるし、分からなければ悪業を作り続けることになる」

王は深いため息をついた。「世尊よ、私は今までそのようなことに気づきませんでした。だからこそ様々な悪業を重ねてしまったのです」

罪は固定されていない──「空」の教え

王は告白する。「悪業を作りましたから死を恐れ、また地獄を恐れています。その悪業の第一は、何の罪も欠点もない父ビンビサーラ王に逆罪を加えたことです。これゆえ、今更二十一の事柄を聞いても、私は必ず地獄へ落ち、言葉に尽くせない責めを受けるでしょう」

仏は静かに首を振られた。「大王、そなたの心には自らの罪に苦しみ深く悔いる『懺悔(ざんげ)の心』がある。だからこそ私は説こう。罪は罪として認めよう。ただし、そなたの未来は罪によって固定されていないと説くのだ。罪は不定(ふじょう)であると知るのは、懺悔の心を持った者だけが直(じき)に棒(ぼう)を持つことなのだ」

「これから語る教えは、罪なき者になるための教えではない。罪と共にいかにして光の中を歩むかを学ぶための教えである」

仏は「空(くう)」の理を説く。地上のあらゆるものには「実体(じったい)」という法則はない。したがって永久に変わらない決定的な実体というものもない。王が地獄へ落ちることが決定的な必然だと思い込んでいるのは、一方的に片付けてしまう間違いだ、と。

「もしも一切の法に決定的な実体がないとの道理であれば、私が父を殺めた罪もまた不定なものなのでしょうか」

「大王、その通りだ」

仏は譬えを用いる。ここに猛毒に犯された一杯の水がある。それはもはや飲むことはできない。しかし、その一杯の水を広大な海に注いだなら、毒は薄まり、海全体が毒に変わることはない。そなたの犯した罪という事実、それはその一杯の毒だ。これは消えない。しかし、これからのそなたの人生という広大な海に慈悲の水を注ぎ続けるならば、そなたの人生そのものが毒に支配されることはない。罪は固定された実態ではない。だからこそそなたは変わることができるのだ。

父王もまた完全ではなかった

仏はさらに問う。「大王、先ほど父王に罪なき者を殺めたと言われたが、一体その父王とは何者か」

「父とは父です」

「父というは、ある物質と精神が合わさって出来上がったものであろう。凡夫は主にその肉体の方だけを見て、それが父の全部だと思っている。そしてその肉体を害すれば父を殺めたと思っている。目に見える部分だけを見てそれが全てだと思っているが、そもそも間違っている」

仏は続ける。実はその肉体も要素に分解すれば、地・水・火・風の四大(しだい)が和合しただけで、実体などないのだ。したがって変化する肉体を害したということもまた不定である。殺すということが不定ならば、地獄へ行くことが決定的であるはずがないではないか。

そして仏は、父ビンビサーラ王自身の過去を語られる。若き日の父王もまた、狩りの獲物が見つからない腹いせに、無辜の仙人を殺め、その呪いを受けた過去があった。父王も深い罪の意識に苛まれ、懺悔の心を持って多くの善行を積んだのだ。

「大王、これが示すのは何か。罪を犯さぬ完全な人間などいない。しかし罪を認め後悔し善を積むものには、必ず道は開かれるということだ。父王がそうであったように、大王もまたそうなることができる」

懺悔の心が罪を変える

「大王よ。大王は国王になりたいという欲深い心から父王に逆罪を加えた。その時の大王の心は煩悩に支配されていた。しかし、その煩悩もまた固定されたものではない。煩悩に支配された心も、懺悔の心によって浄化される。大王、そなたの心は今深く後悔している。その後悔こそがそなたを変える力なのだ」

「罪というものは不思議なものだ。懺悔の心を持つものにとって罪は消えゆく道を示す光となる。しかし懺悔なき者にとって罪は重く固定されたものとなる。すなわち罪は懺悔の人にには『無駄(むだ)』。しかし懺悔なき者には『有(う)』だ」

「我々の肉体は無常である。心もまた常に一定ではない。常に変化し続けるからこそ、そなたは変わることができる。無常・空・無我を理解したものは、もはや罪に固定されることはない」

王の覚醒──真の救済へ

法を聞き終え、アジャセ王は初めて肉体と精神の真実を知ることができた。

「世尊よ。私は初めて、肉体が定めなきものであるように、精神もまた生滅変化して留まることがないということが分かりました。だからこそ私は変わることができる。罪に固定されていないからこそ、正常に戻ることができるのですね。もしこのことをもっと早く知っていれば悪業を作らずに済んだでしょう。しかし今この道理を知ることができました。自分の愚かさを嘆くのではなく、これから歩む道があることに感謝いたします」

仏は静かに微笑まれた。「大王よ。大王ならば多くの人々の悪心をも破ることができるであろう」

王は深く頭を垂れ、顔を上げると目には決意の光が宿っていた。

「世尊よ。改めて申し上げます。私の罪は消えることはありません。父を殺めたという事実は永遠に私の心に刻まれています。しかしだからこそ私は、これから先の人生を人々のために使います。父の命を奪った私の手で、今度は人々の命を守ります。父から奪った愛を、今度は人々に与え続けます。世尊よ、もし私の力で生きとし生ける全てのものの悪心を破ることができるならば、この世の多くの人々に代わって長く地獄の苦しみを受けても、私としては何の恨みもございません。世尊よ、これが私の誓いです。罪は消えない。しかし罪を抱えたまま光の中を歩むことはできる。それを私の人生で証明いたします」

仏は静かに頷かれた。「大王、それこそが真の救済である」

全身(ぜんしん)の功徳

その瞬間だった。マガダ国の民たちが一斉に全身を起こし、王の前で深く礼拝したのだ。民が全身を起こしたために、大王のあらゆる重罪はいよいよ薄れていく。ついで王の夫人・侍女たちもまた皆、全身を起こした。

アジャセ王は喜びのあまり「これも全てジーヴァカの導きのお陰である」と不感謝し、改めて仏を賛嘆した。

仏は王を諭して言われた。「太陽を生きとし生ける全てのものに全身を起こさせるということは、それがそのまま諸物を美しく飾ることになるのである。大王は遠い過去の世に毘婆尸仏(びばしぶつ)に会い、全身を起こした。その後未だかつて地獄の苦を受けたことはない。全身とはそれほど大きな功徳を持っているのだ。大王、今以降もいよいよ全身を持って礼拝を行うならば、かりなき多くの悪号(あくごう)は消え去ってしまうだろう」

帰路──平安に満ちた心

アジャセ王を始めマガダ国の人々は、ありがたい法を聞いて仏の前を三度巡り、礼拝して帰途についた。王の心は平安に満ちていた。疑いは後方もなく消え、心の闇もまた晴れていた。

父を殺めるという最も重い罪を犯した王。その王が真の反省と善友との出会い、そして仏の教えによって救われたのだ。

仏が説かれた「空」の教え。全てに固定的な実態はない。だからこそ変化することができる。だからこそ罪を抱えたまま光の中を歩むことができる。それは絶望の淵にいる者への、最も深い希望のメッセージであった。

アジャセ王はその後、善政を敷いた。かつての暴君は慈悲深き王となり、人々は安らかな暮らしを得たと言われている。そして王は生涯を通じて、自らが受けた救いを多くの人々に伝え続けたのだ。

どんなに重い罪を犯した者でも、心から反省し善き友と出会い、真理に触れれば、救われる道は開かれている。罪を消すのではなく、罪を抱えたまま光の中を歩む。その生き方こそが、私たち現代人に問いかけられる真の救済の姿なのかもしれない。

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