壊れた家電を前に、業者を呼ぶでも買い換えるでもなく、まずドライバーを握る人がいます。その行動を支えているのは、器用さや倹約の精神だけではありません。自分で状況を変えられたという手応え、原因を知りたいという好奇心、そして目の前の状態を自分の手の内に戻しておきたいという感覚。ここでは、そんな心理をいくつかの側面から整理してみます。
「自分にもできる」を確かめたい
修理を好む人の中には、特別に腕に自信があるわけではない人も少なくありません。それでも手を出すのは、自分の手で状況を変えられたという実感が欲しいからだ、という見方があります。心理学ではこれを自己効力感と呼びます。自分にもできるという手応えのことです。
この手応えは、日常では意外と得にくいものです。仕事の成果は数字になるまで時間がかかりますし、人間関係の手応えは目に見えません。その点、修理は結果がその場で物理的に返ってきます。動かなかったものが動く、つかなかったものがつく。たとえば、チェーンが外れた自転車を自分で直したとします。大した作業ではなくても、ペダルをこいだ瞬間に「自分もまだやれる」と感じることがある。物を直しているようで、実は自分への信頼を手入れしているのかもしれません。
直すことより、原因を突き止める過程が面白い
修理好きな人に「直った瞬間が一番うれしいでしょう」と尋ねると、「探っている時が一番楽しい」という答えが返ってくることがあります。壊れたものは、ある意味でパズルです。どこが原因なのか、この部品が怪しいのか、それとも配線か。仮説を立てて試し、外れてまた試す。その過程が、ゲームの面を攻略していく感覚に近いのだといいます。
照明がチカチカし始めたとき、電球を替えて終わりにする人も多いでしょう。しかし原因を追う人は、接触不良か、ソケットの劣化か、スイッチ側の問題かと考えを巡らせます。原因が特定できた瞬間の「あ、お前か」という謎解きの喜び。直すこと自体がゴールではなく、解く過程に快感がある。だから壊れたものを見つけると、困るどころか少しわくわくしてしまう、という説明になります。周囲からは理解しにくいかもしれませんが、本人の中では冒険の合図なのです。
把握できない状態が落ち着かない
蛇口から水がポタポタ落ちている。機能的にはまだ使える。それでもあの音が気になって仕方がない。この不快感の正体は、水漏れそのものよりも、状況を把握できていない気持ち悪さだ、という指摘があります。何が起きているのか分からない、自分ではどうにもならない。その手の内から外れている感じが落ち着かないのです。
心理学ではこれをコントロール欲求と呼びます。環境を自分の理解と操作の範囲に置いておきたいという感覚です。だから、とりあえず開けて中を見たくなる。原因が分かった時点で、実はもう半分安心している。直すかどうかはその次の話です。修理とは物を元に戻す行為でありながら、同時に自分の世界の秩序を取り戻す行為でもある、というわけです。
「もったいない」は節約だけではない
トースターのレバーが戻らなくなった。パンは焼ける。レバーだけが言うことを聞かない。ここで「買い換えよう」と思う人は多いでしょう。しかし修理を好む人は、ここで引っかかります。まだ焼けるのに捨てるのか、と。
この感覚は、単なる節約思考とは少し違うようです。お金の問題だけなら、安い新品を買った方が早い場面もたくさんあります。それでも、まだ使えるものを見捨てるような後味の悪さが残る。経済的な損得を超えた、情緒的な引っかかりがそこにはあります。ちょっとしたバネの交換で済むなら直して使いたい。物の寿命を全うさせてあげたいという感覚で、合理性だけでは説明しきれない、その人なりの美意識のようなものだといえるでしょう。
頼まれると嬉しく、感謝されるとまたやりたくなる
「ちょっとこれ見てくれない?」の一言で目の色が変わる人がいます。頼まれてもいないのに、もう工具に手が伸びている。これは善意だけではない、という見方があります。自分を器用な人間だと思っている人にとって、修理の場面は舞台です。ここが自分の出番だという感覚。壊れたものは困りごとではなく、自分の腕を確かめる装置なのです。
修理を終えた後に返ってくる「すごい助かった」の一言が、思っている以上に効くという話もあります。感謝されると気分が良くなる、というのはよく言われるところですが、その感じ方や度合いには個人差があります。ただ、普段の生活では褒められる機会が驚くほど少ないのも確かです。仕事で当たり前にこなしていることはいちいち感謝されませんし、家事をしても気づかれないことの方が多い。その点、修理は困っていた人の目の前で問題が解決するので、感謝が直接しかも即座に返ってきます。だからまたやりたくなる、という流れです。
中身を知りたいという素朴な好奇心
壊れたから直す、ではなく、壊れたから開けられる。修理を好む人にとって、故障はチャンスだったりします。普段は分解するわけにいかないものの中身を、堂々と覗ける正当な理由ができるからです。
たとえばリモコンのボタンが効かなくなったとします。電池を替えても反応しない。普通なら新しいリモコンを注文するところでしょう。しかし好奇心の強い人は、ネジを外す方を選びます。基盤はこうなっているのか、このゴムの接点が劣化しているのか。直せたかどうかより、構造が見えたこと自体に満足している。これは子どもがおもちゃを分解するのと本質的には同じで、大人になってもその衝動が消えなかっただけ、という説明ができます。
一度できると、次もできる気がする
一度でも自力で何かを直した経験がある人は、次の故障にも手を出しやすくなります。当たり前のようでいて、結構強力な心理です。洗濯機の排水エラーを自分で解消できたことがある人は、今度は食洗機の不調にも手が届くのではないかと思ってしまう。ジャンルが違っても関係ありません。
自分は直せた側の人間だという記憶が、根拠のない自信を生むのです。心理学では成功体験の波及と呼ばれる現象で、ある領域でのうまくいった経験が別の領域にまで広がることを指します。周囲から見ると無謀に見える挑戦も、本人の中では過去の成功が背中を押しています。しかも、たまに本当に直ってしまうから、この自信はどんどん育っていきます。
壊れたままにしておけない、という落ち着かなさ
家族全員が気にしていないリビングのドアのきしみ。生活に支障はない。それでも、一人だけあの音が頭から離れない人がいます。完璧志向の傾向がある人にとって、壊れたまま放置されている状態は、未処理のタスクがずっと通知を出し続けているようなものだ、というたとえができます。
気にしなければいい、と頭では分かっている。それでも気になる。目に入るたびに心のどこかがざわつくから直す。これは趣味でも暇つぶしでもなく、自分の内側の違和感を消すための行為です。直った瞬間に感じるのは達成感というより、「ようやく静かになった」という安堵だといいます。
ついでに良くしたい、人に頼りたくない
「元通りにしてね」と頼んだはずなのに、なぜか元通り以上になって帰ってくることがあります。棚の足を直したはずなのに裏にフックが付いている。時計の電池を替えただけなのに文字盤が磨かれて光っている。本人の中では、修理と改良の境界線がほとんど存在しないのでしょう。どうせ開けたのだから、ここも手を入れたい。せっかくばらしたのだから、もう少し使いやすくしたい。壊れたものは素材であり、キャンバスでもあるわけです。
また、業者を呼べば早いと分かっていても、どうしても電話に手が伸びない人がいます。自分でできることを人に任せるのが、なんとなく負けた気がする。これは意地ではなく、自分のことは自分で始末をつけたいという素朴な自立心だといえます。災害や停電など、業者が来られない状況を想像して、平時のうちに経験を積んでおきたいという備えの気持ちが重なっている場合もあります。
そして、新品を買えば数千円、業者に頼めば1時間で終わるとしても、日曜の午後を丸ごと使って棚を直す行為そのものに価値を見いだす人もいます。お金で買えるのは結果だけれど、手間をかけると愛着がついてくる。合理性の座標軸が、少し違う場所にあるのです。
当てはまらない場合と、気をつけたいこと
ここまで挙げたのは、あくまで「こういう心理が働くことがある」という説明です。実際には、単に費用を抑えたいだけ、時間が余っているだけ、直す気はなくて中身が見たいだけ、ということもあります。すべてを一つの動機で説明しようとすると、かえって実態から離れてしまいます。
また、自分で直すことが常に良い結果につながるわけではありません。分解して元に戻せなくなる、保証が使えなくなる、感電やガス、水まわりなど危険が伴う範囲に踏み込んでしまう、といった事態も起こり得ます。賃貸の設備や電気工事など、業者に任せた方が安全な領域ははっきりあります。修理に没頭して休む時間を削っているなら、それはまた別の話として扱った方がよいでしょう。
手の動きの先にあるもの
何でも修理しようとする人の手は、物に向かっているようで、実は自分自身の手応えや、その先にいる人の表情に向かっているのかもしれません。次に誰かがドライバーを握っていたら、その背景にどんな気持ちがあるのかを想像してみるのも面白いものです。自分が直したい側なら、どこまでは自分で、どこからは任せるかという線をあらかじめ決めておくと、気持ちよく手を動かせるのではないでしょうか。