腹が立ったとき、どこまで言っていいのか。飲み込めばしんどいし、勢いのままぶつければ関係がぎくしゃくします。感情的成熟とは、怒りを消す技術ではなく、怒りをそのまま相手に投げないための手順を知っている状態だと言えます。
年齢を重ねれば自然と落ち着くとは限りません。二十代でも言葉を選べる人はいますし、七十代を過ぎても些細なことで声を荒げる人はいます。違うのは経験年数ではなく、感情の扱い方の癖です。ここでは心理学で知られている研究を手がかりに、その癖を具体的に見ていきます。
怒りは消さない。まず感情に名前をつけてから口を開く
ワシントン大学の心理学者ジョン・ゴッドマンが夫婦の会話を長年にわたって観察した研究では、話し合いがどう転ぶかは最初の3分間でかなり見えてしまうと報告されています。紹介されていた数字では、会話の始まり方から結末を96%の確率で言い当てられたといいます。責める言葉で始まった話し合いは、どれだけ時間をかけても責める言葉のまま終わりやすい、ということです。
そこで効くのが、口を開く前に自分の気持ちへ名前をつける作業です。UCLAで2007年に行われた研究では、怒りや恐れを浮かべた顔写真を見せ、その表情を「怒り」「恐れ」といった言葉で言い表してもらうと、感情に反応する脳の働きが弱まったと報告されています。気持ちを言葉にするだけで、心の温度が少し下がるわけです。
それでも収まらないときは、時間をずらす
「今は頭に血が上っているから、お茶を一杯飲んでから話したい」。こう告げて席を立つのは、話し合いから逃げることとは違います。熱いまま放った言葉は相手の心に深く残りやすく、一呼吸置いて選んだ言葉なら同じ不満でも届き方が変わります。
伝えるときは、相手の行動を責める形から、自分の側の出来事へ置き換えます。たとえば夕食の約束に2時間遅れて連絡もなかった場面なら、次のような言い換えができます。
- 「いつもそうだよね」ではなく「連絡がなくて、事故にでもあったのかと心配した」
- 「なんで連絡くれないの」ではなく「連絡があると安心する」
攻撃されていないと分かれば、相手は身構えずに謝る余裕を取り戻しやすくなります。怒りそのものは消さなくて構いません。届けるべきは勢いではなく、その中身です。
意見が違うときは、反論より先に理由を聞く
自分の案と正反対の意見が出たとき、人は相手そのものへの不信感を抱きやすくなります。1977年にスタンフォード大学で行われた実験では、学生たちに看板を体の前後に下げてキャンパスを歩くよう頼み、断る人がどれくらいいるかを事前に予想してもらいました。引き受けた学生は「6割ほどは引き受けるだろう」と答え、断った学生は「引き受けるのは3割ほど」と答えたといいます。どちらも、自分の選択が多数派だと思い込んでいたわけです。
この「自分が普通だ」という感覚があると、違う意見の人が非常識に見えてきます。成熟した人は、その思い込みが自分の中にもあると知っています。だから反対の声を聞いても、すぐには言い返しません。
聞き方ひとつで、返ってくる量が変わる
「どうしてそう思うの」と問い詰めるのと、「そう考えるようになったきっかけを教えてほしい」と添えるのとでは、相手が受ける印象が変わります。前者は責められている感じを与え、後者は関心を持たれている感じを与えます。話してくれる量も、まるで違ってきます。
聞き終えたら、「その見方は自分にはなかった」と一言返します。同意しなくても構いません。意見に賛成できないことと、その人を嫌いになることは別の話です。この二つを切り離せる人は、話し合いが平行線のまま終わっても、帰り道に普通に挨拶ができます。
断り方は、関係を壊すためではなく守るためにある
親しい相手からの頼みごとは断りにくいものです。コロンビア大学で2008年に行われた実験では、見知らぬ人にアンケートへの協力を頼み、5人に引き受けてもらうまでに何人の声をかける必要があるかを事前に予想してもらいました。予想はおよそ20人。実際にはその半分ほどの10人ほどで目標に届いたといいます。
頼まれた側はなかなか断れません。そして頼む側は、相手がどれほど断りにくい思いをしているかをほとんど把握していない。この非対称を知っておくと、自分が無理をして引き受け続けてしまう理由が少し見えてきます。
「できないこと」と「できること」を分けて伝える
断るときのコツは、関係そのものを切るのではなく、条件を区切ることです。「今週は予定が詰まっていて難しいけれど、来週の火曜なら送っていける」という形なら、相手を突き放さずに済みます。
無理をして引き受けた頼みは、本人が気づかないうちに不満として溜まっていきます。そしてある日、小さなきっかけで一気に溢れる。相手から見れば、昨日まで快く応じていた人が突然怒り出したように映ります。小さく断れる人は、大きく怒らずに済みます。片方だけが我慢を重ねる関係は、いつかどこかで切れてしまいます。
謝るときは、説明を謝罪の前に置かない
自分のミスが指摘されたとき、人は理由を並べたくなります。忙しかった、手伝いがなかった、前のやり方を引き継いだ。どれも嘘ではないとしても、言い訳を重ねるほど聞き手の心は離れていきます。
2016年に755人を対象に行われた謝罪の研究では、後悔の表明、理由の説明、責任の承認、反省、改善の申し出、許しの依頼という6つの要素を比べています。最も効果が大きかったのは「自分に責任があると認めること」でした。次に効いたのは改善の申し出、つまりこれからどう変えるかを示すこと。逆に最も効果が薄かったのは「許してほしい」と頼むことでした。
「ごめんなさい」の後に「でも」を続けない
実用的な形はこうです。「記録を確認しなかったのは私の不注意でした。来月からは入金のたびに別の人にも確認してもらう仕組みにします」。責任の承認と改善策がこの順番で並ぶと、謝罪として届きやすくなります。
避けたいのは「ごめんなさい、でもあのときは忙しくて」という続け方です。聞き手の耳には、前半の謝罪より後半の言い訳のほうが強く残ります。事情を伝えたいなら、まず責任を認め、相手が落ち着いてから求められた分だけ話せば足ります。説明は謝罪の代わりにはなりません。
短い返信に、意味を詰め込みすぎない
文字だけのやり取りは、思っている以上に誤解を生みます。2005年の実験では、皮肉を込めた文章と真面目な文章をメールで送ってもらい、受け取った側がどちらかを読み取れるかを調べました。送った側は78%の相手が正しく受け取ると予想しましたが、実際に読み取れたのは56%。二択の問題で偶然とほとんど変わらない水準でした。
送った人の頭の中には声の調子や表情がありますが、それは相手には届いていません。受け取る側も同じで、言葉が足りない部分を自分の不安で埋めてしまいます。一度「嫌われたかもしれない」と思い込むと、返事の遅さや絵文字の有無など、普段は気にも留めない小さな点が、すべて冷たさの証拠に見えてきます。
そこで一度立ち止まり、決めつけずに確かめます。たとえば用件と一緒に「先日は短い返事だったので、忙しかったのかなと思って」と軽く添えてみる。問い詰めるのではなく事実を確かめる形にすると、相手も返しやすくなります。
当てはまらない場面もある
ここで挙げたのは性格の類型ではなく、場面ごとに選べる手順です。怒りを感じやすいかどうか、言葉にしやすいかどうかには個人差があります。すべてを一度に実践する必要はありません。一つ選ぶなら、「腹が立ったときに、まず感情へ名前をつける」あたりが始めやすいでしょう。
また、これらの工夫が向かない関係もあります。相手が繰り返し攻撃的である、何を言っても尊重されない、距離を取ること自体が難しいといった場合は、伝え方の工夫よりも安全の確保や第三者への相談が優先されます。感情的成熟は、つらい関係に耐え続けることとは別のものです。
年齢を重ねれば自動的に身につくものではない、というのがここまでの要点です。怒りを消すのではなく、名前をつけて、伝え方を選ぶ。その手順を繰り返すうちに、話したあとに穏やかな顔になるような関係が、少しずつ増えていくのかもしれません。