なぜ結果と自分の価値を分ける必要があるのか
勝敗は、あらかじめ決められた枠の中で決まる。試験には採点基準があり、会社には評価制度がある。スポーツにも得点の数え方や終了時間が決められている。その枠の中で上に行った人を勝者と呼び、届かなかった人を敗者と呼ぶ。ただし、その結果が証明している範囲は本来かなり狭い。
「今回の選考では別の人が選ばれた」「この条件では相手の方が強かった」。そこから先は本人が付け加えた解釈だ。昇進できなかった人が「自分は評価されない人間なのだ」と考えたり、事業に失敗した人が一度の結果から自分の才能まで否定したりする。ある勝負で負けたという出来事が、いつの間にか「自分は敗者である」という自己紹介に変わっていく。
勝った側にも似たことが起きる。一度成功すると「自分は優秀な人間だ」と思い、周囲も次の成功を期待する。すると勝利は、手に入れた結果であると同時に、守らなければならない役になる。負けた人は敗者という役に、勝った人は勝者という役に閉じ込められる。立場は反対でも、自分を一つの結果で決めてしまう点では同じだ。
哲学者のサルトルは、人間が自分を一つの役割や性質へ固定する自己欺瞞を「悪しき信仰」と呼んだ。給仕の例が有名だ。接客を丁寧にすること自体は問題ではない。問題は、その人が「自分は給仕なのだから、給仕として決められた通りに振る舞うしかない」と、自分の可能性まで役割に預けてしまうことだ。教師が「先生なのだから弱音を見せてはいけない」と考えるのも似ている。役割そのものが悪いのではなく、可能性まで役割に預けることが不自由を生む。
負けを認めることと、自分を下げることは違う
負けを認めるとは、現実を自分のプライドより先に置くことだ。「この方法では通用しなかった」「今回は相手の方が強かった」「自分の判断は間違っていた」「欲しかったものを手に入れられなかった」。そこを認めて初めて、次の選択を現実に合わせて変えられる。
一方で、負けを認めることは「自分は敗者だ」と決めることでもない。今回の選考で負けたのは事実だが、「自分には価値がない」「もう何をしても無理だ」という結論まで、選考結果が証明したわけではない。何に、どの条件で負けたのかを正確に見れば、その外側まで敗北に渡さずに済む。
スティーブ・ジョブズは1985年、自分で立ち上げたアップルを去ることになった。彼は後年、成功者であることの重さが消え、もう一度初心者でいられる軽さが戻ったと振り返っている。アップルへ復帰できたからあの経験に価値があったのではなく、成功者という完成した像が崩れた時点で、それまでの自分では選びにくかったことを始められる状態になっていた。敗北が自動的に次の成功を運ぶわけではないが、勝っているときには見えにくい「なぜこの勝負に参加しているのか」を考える機会にはなる。
問いが重いときの代わりの方法
書くのが苦手なら、声に出して一人で話すか、スマホのメモに箇条書きにする。感情が強すぎるときは、まず体を動かす、眠る、時間を置くことを優先する。同じ問いを繰り返すのがつらいなら、今日は「何に負けたか」だけ書いて終わってもいい。
負けたことで必ず別の道へ行く必要はない。同じものが欲しいなら、もう一度挑めばいい。以前ほど欲しくないと分かったなら、別の道を選ぶこともできる。どちらを選ぶにしても、出発点は「本当は負けていなかった」という言い換えではない。負けた事実を置いたまま、次の行動を決め直すことだ。
負けた事実を置いたまま、次の行動を決める
敗北は流れを一度止める。うまくいかなかったという事実を前にすると、それまで当然だった前提を見直さざるを得なくなる。ここで敗北を認められないと、相手が悪かった、運が悪かったと自分を守ることに意識が向く。もちろん実際にそういう場合もあるが、それだけで話を終えると、自分が何に負けたのかは分からないままになる。
負けを自覚するとは、自分を必要以上に下げることではない。現実に起きたことを、自分のプライドより先に置くことだ。その上で、今も同じものが欲しいのか、それとも別の形で満たせるのかを確かめる。勝敗の外側から自分の生き方を選び直すとは、そういう小さな確認の積み重ねだ。