満員電車に揺られて何十年。60歳の定年を迎えたとき、「もう休んでいいはずだ」と誰もが思う。それは当然の気持ちだ。しかし、フランスで約43万人の自営業者を対象にした研究では、引退が1年遅れるごとに認知症と診断されるリスクが約3%ずつ低下することが報告されている。計算上、60歳でやめて65歳まで続けた人では、約15%の差が生まれる可能性がある。働けば必ず防げるという約束ではないが、残りの20年、30年を左右しうる数字だ。
正反対の道を選んだ二人の5年後
東京に住む杉本誠一さん(65歳)は、大手メーカーの経理として40年近く勤め上げ、60歳で定年退職した。退職金で住宅ローンを完済し、子どもも独立。年金と蓄えで静かに暮らせる計算だった。しかし、退職から3ヶ月も経たないうちに、杉本さんは自分自身の小さな異変に気づき始める。目覚ましをかける理由がなく、起床が8時、9時と遅れる。新聞の経済記事が2度読まないと頭に入らない。テレビをつけたまま気づけば昼になっている。眼鏡を探してうろついていると、頭の上に乗っていた――現役時代は伝票の数字の誤りを一目で見抜けた男が、数分前のことを思い出せなくなっていた。
「少し働こうと思う」。杉本さんは知人の紹介で、街の工場や小さな商店の帳簿を見て資金繰りを助言する週3日・1日4〜5時間の仕事を始めた。それから5年。今の杉本さんに会うと、65歳とは思えないほど背筋が伸びている。毎朝6時に起き、近所の公園を歩き、若い経営者と打ち合わせをし、決算書に目を通す。「働いていちばん良かったことは、朝起きる理由があること。今日やることがあるから寝坊する気にならない。人と会って話して、新しい制度を学んでまた説明して。そうしていると頭がいつも起きている感じがするんですよ」と杉本さんは話す。妻の千鶴さんも「仕事は主人にとって薬みたいなもの。家にいた3ヶ月はイライラしてふさぎ込んでいたのが、今は毎日楽しそうで、健康診断の結果も同年代よりずっといい」と笑う。かかりつけ医も「無理のない形で仕事を続けていると、頭も体も使い続けているので機能が保たれやすい。特に人と話して新しいことを学ぶ仕事は、物忘れの予防という意味でもいい」と評価する。
一方、神戸市に住む岡田和子さん(退職時60歳)は、地元の銀行で窓口と融資を40年近く務めた真面目な人だった。「もう本当に休みたい。これからは自分の人生を楽しむ時間だ」と、温泉旅行や友人との散歩、孫の世話を計画した。最初の半年は幸せだった。しかし1年を過ぎた頃から様子が変わる。朝は9時、10時まで寝るのが当たり前になり、起きても何をすればいいかわからない。毎日が同じ繰り返しで、何もする気が起きなくなった。夫の幸さんが心配して同窓会へ誘っても「なんだか面倒で、最近外に出るのもおっくう」。退職から2年、物忘れが深刻化する。何をしようとして立ち上がったのか思い出せない。孫を迎えに行く時間も忘れる。同じ話を何度も繰り返す。物忘れ外来で「軽度認知障害の初期の兆候が見られます」と告げられた和子さんは62歳だった。「年齢だけで決まるものではない。退職されてから人と会ったり頭を使ったりする機会はどうでしたか?」と医師に問われ、「ほとんど家にいました」と答えるしかなかった。「完全に休んで何もしない生活が続くと脳の刺激は大きく減ります。人との関わりがなくなると特にそうです。今からでも何かできることを探してみてください」。和子さんは地域の社会福祉協議会でボランティアを始め、週2回の市民講座に通い始めた。表情は少しずつ戻ったが、「失った2年を今も惜しんでいます」と話す。
研究が示す「働くこと」の5つの脳への刺激
2024年、世界の専門家が発表した報告では、認知症の約45%は生活習慣など変えられる要因と関わっている可能性があるとされ、その中には社会的孤立や身体活動の不足も含まれる。ある仮想的な例として、60代前半で退職した2500人を3グループに分け5年間見守ったとする。完全に仕事をやめたグループ(800人)では、5年後に約19%が軽度認知障害や認知症と診断され、気分の落ち込みが3割超、持病が悪化した人が半数近くにのぼった。パートやボランティアなど軽い仕事を続けたグループ(900人)では、物忘れの問題が約8%、気分の落ち込み1割余り、持病の悪化2割程度。フルタイムに近い形で働き続けたグループ(800人)では、物忘れの問題が約6%にとどまった。もちろんこれは一例だが、多くの研究が示してきたのはまさにこうした方向性の違いだ。
ある精神科医はこう語る。「働くというのはお金を稼ぐことだけではありません。朝起きる理由を与え、人とのつながりを保たせ、頭を使い続けさせる。その3つが認知症の予防にとって大切なんです」。私たちの脳は筋肉に少し似ている。使わなければ少しずつ衰えていく。ジムに通うのをやめれば筋肉が落ちるように、脳も刺激を受けなければ働きが鈍っていく。仕事はその脳にいくつもの刺激を与えてくれる。
- 問題解決力を使うこと:仕事をしていれば様々な問題が起きる。それをどう片付けるか考える時、脳の前頭葉が活発に働く。前頭葉は計画を立て、判断し、決断する役目を担う場所だ。
- 記憶を使い続けること:仕事の段取りを覚え、相手の名前と顔を覚え、約束や数字を覚えておく。こうした積み重ねが記憶に関わる海馬を刺激する。
- 人との関わり:同僚と話し、意見を交わし、協力する。その瞬間にはいくつもの脳領域が同時に動いている。一人きりで過ごすよりずっと多くの働きが生まれる。
- 学び続けること:新しい道具の使い方を学び、変わっていく環境に慣れ、新しい情報を取り入れる。年を重ねても脳は新しいつながりを作ることができる。これを神経の可塑性と呼ぶ。
- 生活の整うこと:決まった時間に起き、働き、休む。この繰り返しで体内時計が安定し、眠りの質が上がり、体全体の調子も整いやすくなる。
仕事や知的な活動と、脳の神経細胞が集まる海馬の量との関係を調べた研究もあり、関心が高まっている分野だ。
日本でこの話がとりわけ大切な理由
日本は2007年に65歳以上が人口の2割を超える超高齢社会に入り、今ではその割合はおよそ3割に迫っている。厚生労働省の研究班では、2022年時点で認知症は約440万人、その手前の軽度認知障害の人は550万人を超え、2040年には認知症の人が600万人近くに増えると見込まれている。これは単なる数字の話ではない。一人が認知症になれば家族全体の暮らしが変わる。仕事を減らして介護に回る子ども、通いや施設の費用。介護保険を使っても月に数万円から10万円近い出費が何年も続くことは珍しくなく、社会全体で見ればその負担は10数兆円規模にのぼるという試算もある。だからこそ認知症の予防は、一人ひとりの問題であると同時に社会の課題でもある。
もう一つの事情がある。多くの会社では定年は60歳のままだ。65歳まで継続雇用の仕組みはあるが、立場も給料も大きく変わり、そこで区切りをつける人も少なくない。一方で平均寿命は男性で81歳、女性で87歳ほど。定年後の20年以上の時間が残されている。問題はその長い時間をどう過ごすかだ。もし何もしずに過ごすとしたら、20年はあまりに長い。体も心も崩れて生きかねない。高齢者の今一番の不安を尋ねる調査では、健康、お金、そして孤独や暇を持て余すことが繰り返し上位に上がる。興味深いのは、働き続けている人ではこの3つが揃って和らぎやすいということだ。体を動かすので健康が保たれ、収入があるのでお金の不安が減り、人と関わるので寂しさも薄れる。
60歳を過ぎてから、どんな「仕事」をすればいいのか
ここで大事なのは「仕事」という言葉の意味だ。お金を稼ぐ労働だけが仕事ではない。
1. パートの仕事を探す
週2〜3日、1日4〜5時間くらいが理想的だ。働きすぎは返ってストレスになり体を壊す原因になる。千葉県に住む石井さんは近所のスーパーで週3日品出しをしている。時給1100円ほどで月に6万円前後。「たくさん稼げるわけじゃないけど、人に会えるし体も動かせる。朝行く場所があるって本当にありがたいことですよ」と石井さんは言う。
2. ボランティア
地域の公民館や図書館、学校、病院など、ボランティアの機会はたくさんある。お金にはならないが、やりがいと達成感が得られる。仙台市に住む74歳の女性は毎週火曜日と木曜日、地域の図書館で子どもたちに絵本を読み聞かせている。「子どもたちの顔がぱっと明るくなるのを見るとこっちが元気をもらうんです。誰かの役に立っていると感じられるのが嬉しくて。それに読む前に下読みをするで頭も使うし、子どもたちの反応を見るのも楽しみ」。こうした「誰かの役に立っている」という実感は、脳にとっても心にとっても強力な栄養剤になる。
3. 学び直し・資格取得
新しい知識を得ること自体が脳の可塑性を刺激する。オンライン講座や地域のカルチャーセンター、大学の公開講座など、ハードルは低い。資格取得を目指すなら、宅建士やファイナンシャルプランナー、介護関連資格など、これまでの経験を活かせる分野がおすすめだ。「学ぶこと」にゴールを設けると、日々の生活に張りが生まれる。
4. 趣味を「役割」に変える
庭いじりが得意なら地域の花壇ボランティア、料理が好きなら子ども食堂の調理補助、写真が趣味なら地域の記録係など、好きなことを「誰かのため」に使う形に変えると、責任感と喜びの両方が得られる。
「小さな一歩」から始める、これからの20年
60歳という節目で「完全リタイア」か「何らかの継続」かを選ぶとき、その差はお金だけでなく、体の調子、心の針、物忘れの進み方にまで及ぶ。杉本さんのように週3日の軽い仕事を選んだ人も、和子さんのように一度は完全に休んでからボランティアを見つけた人も、共通しているのは「朝起きる理由」「人と関わる場」「頭を使う機会」の3つを手に入れたことだ。脳は筋肉と同じ。使わなければ衰えるが、適度な負荷をかけ続ければ機能は保たれる。神経の可塑性は生涯失われない。
今日からできる小さな一歩は、週に1日でもいいから「誰かと会って、何かをする」予定を入れることだ。近所の散歩グループ、図書館の読み聞かせボランティア、カルチャーセンターの講座、あるいは知人の手伝いでもいい。「朝、行く場所がある」というささやかな事実が、あなたのこれからの20年を、静かな余白ではなく、ブレない余裕のある時間に変えていくかもしれない。