64歳の春、駅前のATMで30年使い続けた暗証番号がどうしても思い出せなかった。画面に「暗証番号が違います」と2度表示され、あと1回間違えればカードが止まる。後ろで誰かが咳払いをし、冷や汗をかいて逃げるように銀行を出たあの日、吉岡さん(仮名)の長い「脳の不安」との戦いが始まった。
母が晩年認知症になり、通帳の場所が分からなくなり、自分のお金が自分のために使えない理不尽な介護の日々を目の当たりにしてきた。自分もそうなるのか。妻ののり子さんに同じ思いをさせるのか。その恐怖が、財布の紐を緩めた。
50万円分の「安心」を買っても脳は変わらなかった
記憶力に良いというサプリメント(月8,800円)、脳トレアプリ(月6,600円)、スポーツジム(月1万2,000円)、血流が良くなると勧められたマッサージチェア(19万8,000円)。合わせて約51万円。年金生活で退職金に手をつけないと決めていたのに、「健康のため」という言葉の前で決意は簡単に崩れた。
ジムには最初の1ヶ月こそ週3回通ったが、ランニングマシンの上でニュースを見ながら足だけを動かしても、頭はちっとも晴れない。「歩いているのにどこにも行っていない」そんな虚しさだけが残った。秋には月2〜3回になり、それでも会費は毎月引き落とされ続けた。
山道20分で始まる「脳の大掃除」――コルチゾールと注意回復理論
のり子さんに誘われた高尾山。往復1,000円の電車賃、履き慣れた運動靴とペットボトルの水だけ。登山口に立つと、杉木立の間から朝の光が差し込み、足元の土はしっとり湿っていた。歩き始めて20分ほどで、肩に入っていた力がじわじわと抜けていくのを感じた。
後で本を読んで知った。あれは脳内で「最初の大掃除」が始まっていた瞬間だった。掃除されていたのはコルチゾール――いわゆるストレスホルモンだ。本来は危機の時に体を守ってくれるありがたいホルモンだが、現代人の脳はこれを一日中出し続けてしまう。
- 森の小道を歩く人の唾液を調べた研究では、歩き始めて20〜30分でコルチゾールの値がはっきり下がった。
- 同じ時間だけ都会を歩いた人と比べると、その差は大きかった。
鍵は耳から入ってくる音の違いにある。街のクラクション、サイレン、工事音は脳の奥にある扁桃体(警報センター)を絶えず刺激し続ける。だが山で聞こえるのは、風に揺れる葉音、鳥の声、沢の水音だけ。そこには警報センターが反応すべき脅威の信号がない。警報が沈めば鼓動はゆっくりになり、呼吸は深くなり、体は「戦うモード」から「回復するモード」へ切り替わる。
心理学には注意回復理論という考え方がある。仕事で使う注意は努力して絞り出す「方向性注意」で、担当する前頭葉は筋肉のように使えば使うほど疲れる。一方、揺れる木々や木漏れ日、遠くに重なる山稜は、努力しなくても自然に目を引き寄せる「非方向性注意」だ。その柔らかな注意の隙間に、働き詰めだった前頭葉はようやく休んで充電できる。
きつい登りが「楽しさ」に変わる瞬間――エンドルフィンとエンドカンナビノイド
やがて道は急な登りに変わり、長い階段が待ち受けていた。太ももが張り、心臓が早鐘を打ち、肩で息をしていた。「どうしてこんなところに来てしまったのか」と思っていた矢先、のり子さんが振り返った。「大丈夫?」「大丈夫じゃない。少し休む」「休んだらもう動けなくなる」「じゃあゆっくりね。お前平気なの?」「平気じゃないわよ。でもなんだか楽しいの」
苦しいのに楽しい。階段の途中で気づいた。足は相変わらず重いのに、気分だけがすっと晴れていたのだ。これも脳の仕業だった。運動がある強さを超えると、脳は体の負担を感じ取り、エンドルフィン(天然の鎮痛物質)を出す。最近の研究ではエンドカンナビノイド(脳が自分で作り出す幸福物質)も注目されている。痛みを和らげるだけでなく、不安を減らし気分を引き上げる働きがある。マラソンランナーが言う「ランナーズハイ」の主役もこれだ。
これは走ることだけで起きるのではない。心拍数を十分に上げた状態が20分以上続く運動なら条件を満たし、急な坂を登る山歩きはまさにそれに当てはまる。痛みの信号が抑えられ、快楽の回路にスイッチが入り、脳の報酬系が苦しさを楽しさにひっくり返す。山に通う人が「きつかった」と言いながらまた出かけていくのは、意思が強いからではない。脳があの心地よさを覚えているからだ。
でこぼこ道が海馬と小脳を鍛える――転倒予防と記憶力の意外な関係
階段が終わると、道脇の根と岩が入り組んだ細い道になった。突き出した岩、絡み合った根、落葉に隠れた滑りやすい土。同じ一歩は二度とない。ジムのランニングマシンではニュースを見ながら足だけを自動的に動かしていたが、山道ではそうはいかない。「あの岩はグラつかないか」「この傾きなら足首をどれだけ曲げればいいか」「次の一歩をどこに置くか」。一歩ごとに脳がその場で計算している。
- 小脳(後頭部の下にある):体のバランスや細かな動きを調整。山道ではこれが休みなく働き続ける。
- 海馬:記憶を司る場所として知られるが、頭の中に空間の地図を書く「ナビゲーション」の役割も担う。分かれ道、前に見える尾根までの距離。山を登っている間、海馬は自分がどこにいるかを把握するために地図を書いては書き換えている。
でこぼこの地面を歩く方が平らな道よりバランス感覚や認知機能の向上に効果があったという研究もある。その年の夏、府中駅の階段で足を踏み外しかけた時の肝冷やしは忘れられない。「年を取って何より怖いのは転倒だ」と言われるが、鍛えられるこのバランス感覚は、どんな保険よりも実用的な備えなのかもしれない。
大人の脳でも神経細胞は生まれる――「脳の肥料」BDNFと有酸素運動
そして海馬にはもう一つ、何より大事な話があった。昔は「大人の脳細胞は死んでいく一方でもう生まれない」と信じられていたが、この常識は覆された。大人になっても海馬では新しい神経細胞が生まれている。そしてそれを促す最も強力な方法の一つが有酸素運動だという。
運動すると脳は神経細胞の成長を助けるタンパク質(BDNF=脳由来神経栄養因子)を出す。研究者たちはそれを「脳の肥料」と呼ぶほどだ。実際の実験では、1年間定期的に有酸素運動を続けた高齢者の海馬がおよそ2%大きくなっていた。脳の年齢で言えば1〜2年ほど若返ったと言える結果だった。ストレッチだけをしたグループでは年齢通りに海馬が縮んでいた。
山歩きは心拍数を上げる有酸素運動であると同時に、海馬に空間を計算するという課題を与え続ける。揺らぎながら鍛えられる、これ以上ない条件だ。専門家の中には「週に1度、2時間ほど山を歩けば十分にその恩恵を受けられる」と話す人もいる。もちろん効果の現れ方は人それぞれで、何かを約束してくれるものではない。
今日から始められる「小さな一歩」
月6,600円の脳トレアプリは結局ほとんど開かなかった。月8,800円のサプリメントは「飲んでいるという安心」を買っていただけだった。本当に必要としていたものは、電車で1時間の場所に最初からただで置かれていた。
山頂で富士山を見た時、脳の中では花火が上がっていたらしい。高いお金を払って「不安を買い取ろう」とした男が、山の上で自分の脳と出会い直すまでの話。それは特別な誰かの物語ではなく、これからを生きる私たち全員の、静かな希望の話でもある。
今週末、近くの里山や公園の散策路を2時間歩いてみませんか? 往復の交通費と水筒だけで、あなたの脳は確実に「充電」を始めるはずです。