何もしていない時間に、脳は過去をたぐり寄せる
2010年、アメリカの研究チームがスマートフォンを使って約2250人の心の状態を調べた。1日に何度か、決まっていない時刻に「今何をしていますか」「今何を考えていますか」と質問を送る。集まった回答はおよそ25万回にのぼった。すると、人は起きている時間の約47パーセント、目の前のこととは別のことを考えていた。そして、心がさまよっているときのほうが、幸福だと答えにくい傾向があった。
脳には、何もしていないときに働きが高まる回路がある。自分のこと、過去のこと、これから先のことを考えるときに動く回路だ。布団に入って何もすることがなくなると、脳は休むどころか、自分の過去をたぐり寄せ始める。夜に記憶が戻りやすいのは、単に暗くて静かだからではなく、脳が手持ち無沙汰になっている時間だからかもしれない。
楽しかった日より、嫌だった場面が浮かぶ
では、なぜ夜の布団で浮かぶのは楽しかった日より、嫌だった場面ばかりなのか。2001年、心理学者たちが多くの研究を「良い出来事と悪い出来事、人に強く影響するのはどちらか」という問いで並べ直した。日々の出来事でも、人間関係でも、人からの評価でも、答えはほとんど同じだった。悪い出来事のほうが、良い出来事よりも強く影響する傾向があったのだ。
たくさん褒められた日でも、夜に思い出すのは一つのきつい言葉のほうだったりする。なぜそうなっているのか、はっきりした答えはまだない。危なかった出来事をよく覚えていた人ほど生き残りやすかった、という説明がよく挙げられるが、これはまだ確かめられていない説の一つだ。ただ、悪い出来事のほうが強く残るという傾向自体は、多くの研究が同じ方向を示している。
終わっていないことに、心は戻ろうとする
強く残ることと、何度も戻ってくることは少し違う。嫌な記憶が繰り返し呼び戻される理由として、長く語られてきたのが「ツァイガルニク効果」だ。1927年、ベルリンの大学で、若い研究者が短い作業を途中で止められた人と、最後まで終えた人とで、どちらをよく覚えているかを調べた。最初の実験では、途中で止めた作業のほうが約2倍思い出された。
ところが2025年、この効果を59の研究でまとめ直した論文が出た。最初の実験を除いて並べてみると、途中で止めた作業と終えた作業は、ほぼ同じくらいしか思い出されていなかった。つまり「終わっていないことほどよく覚えている」という差は、ほとんど見つからなかった。一方、同じ論文ではっきり確認できたことがある。途中で止められた作業を、人は後で自分から再開しようとする傾向があったのだ。
終わっていないことをよく覚えているのではなく、終わっていないことに心が戻ろうとする。夜に何度も浮かぶあの場面は、記憶の強さの問題ではなく、心の中でまだ終わっていない問題として扱われているのかもしれない。
思い出し方によって、同じ記憶の重さは変わる
思い出すこと自体が心に悪いわけではない。1989年、カリフォルニアの大学で、ある研究チームが137人の学生の気分と落ち込んだときの考え方の癖を調べていた。その14日後、大きな地震が町を揺らした。地震の10日後に同じ学生たちを調べると、地震の前から落ち込んだときに繰り返し考え込む癖があった学生ほど、落ち込みやストレスが長く続く関係が見られた。地震のことを多く考え込んだ学生ほど、7週間後も辛さが残る傾向があった。
ただし、繰り返し考えることがいつも悪いとは限らない。辛い出来事から立ち直るときにも、次に備えるときにも、人は同じことを何度も考える。分かれ目の一つは、考え方の形だ。「なぜ自分はこうなのか」と大きく抽象的に考えるのか、「何が起きて、次に何をするのか」と具体的に考えるのか。
2005年の実験では、うつ病の人40人とそうでない40人に、自分の今の状態について抽象的に考えるやり方と具体的に考えるやり方をしてもらった。うつ病の人たちでは、具体的に考えた後のほうが、人間関係の問題の解き方が良くなった。同じ年、別の研究では、腹の立った出来事を思い出してもらい、その場面に入り込むのではなく、少し離れたところから自分を眺めるように考えた人たちは、同じ「なぜ」を考えても怒りがぶり返しにくかった。
どこから、どんな形で思い出すか。それによって、同じ記憶が違う働きをするようだ。
脳は問題に道筋がつくと、呼び戻すのをやめるかもしれない
なぜ人の心には、終わっていない問題に何度も戻ろうとする仕組みがあるのか。手がかりになる実験がある。2011年、アメリカの研究者たちは、参加者にまだ終わっていない目標を思い出してもらった。すると、その目標のことは、関係のない文章を読んでいる間にも頭に浮かび、邪魔をした。ところが、その目標について具体的な計画を書いてもらうと、浮かんでくるのが止まった。目標はまだ何も終わっていないのに、だ。
これは一つの研究グループの実験で、他の研究による確かめ直しはまだ多くない。それでも、見えてくる形はある。脳は、問題が片付いた、あるいは片付ける道筋が決まったと分かると、呼び戻すのをやめるのかもしれない。考え込む仕組みは、難しい問題を解き終わるまで考え続けるために備わったのではないか、と考える研究者もいる。ここもまだ確かめられていない説の領域だ。
解くための仕組みが、解けない問題の前で止まれなくなる。夜に何度も戻ってくる場面は、その仕組みの空回りなのかもしれない。
夜の布団でできること、できないこと
昼間の一言がまた頭の中で始まったとき、「忘れよう」と抑えつけるのは、白くまの実験と同じで、かえって強く呼び戻す。思い出すこと自体を止めるのは難しい。でも、眺める位置や形を変える余地はある。
たとえば、その場面に入り込んで「なぜ自分はあんなことを言ったのか」と繰り返す代わりに、少し離れたところから「何が起きて、次に何をするか」と具体的に書き出してみる。未完了の目標に計画を書くと浮かびにくくなった実験のように、心が「片付ける道筋が決まった」と受け取るかもしれない。これは誰にでも同じように効くとは限らないが、一つの試みにはなる。
それでも、辛さが長く続くときは、一人で抱えずに専門の人の力を借りることもできる。思い出すことを止められないのは、意志の問題ではなく、脳が問題を解き続けようとする、少し不器用な仕組みかもしれない。夜の布団で開かれるページは、まだ終わっていない何かを知らせているのだろう。