一体感は同じ行動から作られる
社会学者デュルケムは、人が大勢で集まり、同じものを見て、同じ声を上げ、同じリズムで体を動かすと、普段の自分を超えた力に包まれたように感じる状態を「集合的沸騰」と捉えました。祭りは単なる娯楽ではなく、社会が自分自身の存在を人間の体に思い出させる時間だという考え方です。
普段、人の注意は仕事や家事、買い物、スマートフォンへ別々に向いています。祭りはその分散を一時的に止め、同じ太鼓を聞き、同じ神輿を見て、同じ掛け声を上げさせます。注意が一つの対象に集まり、感情が周囲によって増幅されます。一人で拍手をしてもやがて気まずくなりますが、数万人が同時に拍手をすると、その音は自分の外から押し寄せ、自分も大きな存在の一部になったように感じます。
2011年にスペインの火渡り祭りで行われた小規模な調査では、火を渡る本人と親しい観客の心拍変化に同期する傾向が見られました。無関係な観客とは同じ程度に同期しませんでした。心拍の同期だけで価値観の一致まで証明できるわけではありませんが、祭りの熱が言葉だけでなく、関係のある人の体にも現れたことは興味深い点です。観客はただ見ていたのではなく、大切な人の緊張を体の一部で引き受けていた可能性があります。
日常では、同じ場にいるなら「見るだけ」より、拍手や掛け声など小さな同期行動を試すと、周囲との一体感を体で感じやすくなります。無理に大声を出す必要はありません。できる範囲で同じリズムに乗るだけでも、参加の感覚は変わります。
負担には参加を証明する働きがある
祭りの中心にいる人ほど疲れます。長い練習、寄付、衣装の準備、早朝の設営、長時間の更新。この非効率さには意味があるかもしれません。2013年にヒンドゥー教の儀礼タイプーサムを対象にした調査では、苦痛の少ない祈りに参加した人の平均寄付額がおよそ280円、高負担の儀礼を見守った人がおよそ550円、実際に儀礼を行った人がおよそ450円でした。感じた苦痛が強いほど寄付額も増える傾向があったと報告されています。
もちろん苦痛を与えれば人が善良になるという話ではありません。ただ、負担には参加を証明する働きがあります。「この共同体を大切にしています」と言うだけなら簡単ですが、何週間も準備し、重いものを運び、最後まで役割を果たせば、その行動は周囲にも見えます。自分も時間を使った、隣の人も使った。同じ負担を引き受けた記憶が参加者の間に残ります。
会社や地域の行事でも、準備や後片付けなど小さな負担を自分から選んで引き受けると、参加が自分の記憶にも周囲にも残りやすくなります。ただし、負担を「絆」と呼んで一方的に押し付けるのは逆効果です。参加者自身が選べる負担であることが大切です。
日常の肩書きから外れる時間を作る
文化人類学者ヴィクター・ターナーは、儀礼の中で日常の身分や役割から一時的に外れる状態を「リミナリティ」と呼びました。祭りでは部長と部下、教師と生徒、先輩と後輩が同じ衣装を着て、同じものを担ぎ、同じ掛け声に従います。肩書きが消えるわけではありませんが、一時的に社会的地位より、同じ場に参加している身体が前に出ます。
古代ローマのサトゥルナリアでは、祭りの期間に仕事や商業活動が止まり、奴隷に一時的な自由が与えられ、主人と奴隷の食事の場での役割が逆転することもありました。普段は禁じられた賭博も認められました。ただし祭りが終われば階級秩序も戻りました。一時的な逆転は、普段の秩序が絶対ではないことを見せると同時に、例外を限られた期間へ閉じ込め、日常への復帰を受け入れやすくする面もあります。
学校の文化祭では、試験の点数や提出物では見えにくい能力が前に出ます。絵を描ける人、配線ができる人、衣装を縫える人、時間を管理できる人。成績表に現れない能力が別の配置で可視化されます。ただし一部の生徒だけが支配し、別の生徒が作業を押し付けられれば、行事は普段の格差を拡大します。重要なのは行事があることではなく、普段とは違う人間関係を経験できるかどうかです。
家庭や職場でも、役割を一時的に交換する小さな機会を作れます。いつも料理をする人が休み、別の人が担当する。会議の進行をいつもと違う人がやってみる。完全に肩書きを消せなくても、違う配置を試すことで、普段見えない面に気づくことがあります。
祭りは時間の区切りを作る
自然には朝と夜、季節があります。しかし12月31日と1月1日の境界は人間が決めたものです。それでも人々が同時に数を数え、鐘を鳴らし、挨拶を交わすと、その境界は現実になります。デュルケムは、暦の区分が繰り返される儀礼や公的行事と対応していると考えました。暦は日数を測る表ではなく、集団生活のリズムを表す装置でもあります。
祭りの前、祭りの日、祭りの後。この区切りがあることで、一年は同じ日の連続ではなくなります。人は祭りを目印に、去年は誰と参加したか、子どもがどれほど成長したか、誰が町を離れ、誰が役割を継いだかを思い出します。祭りが毎年同じ形で戻るから、その周囲で変わったものが見えるのです。
祇園祭は応仁の乱で中断した後、1500年に町の人々によって再興され、その後も火災などで山鉾を失いながら再建を繰り返してきました。祭りが続いたのは共同体が変わらなかったからではなく、祭りを復活させる作業そのものが共同体を作り直してきたからです。山鉾は記録媒体でもあります。組み立て、飾り、引き、解体し、翌年また組み立てる。共同体の記憶が毎年、人間の作業として再生されます。
家族や仲間でも、毎年同じ時期に同じことをする小さな年中行事を作ると、時間の区切りを感じやすくなります。準備や片付けも含めて行うと、過去を現在形で実行する感覚が生まれます。
熱には内側と外側を分ける面もある
集合的沸騰には、善悪の方向が備わっていません。私たちが強くなる時、同時に「私たちではない人」が生まれます。一つの旗を神聖なものにすれば、それを持たない人が外側へ置かれます。一つの価値を全員で賞賛すれば、それを疑う行為は意見ではなく裏切りに見え始めます。ランダル・コリンズの相互作用儀礼論でも、儀礼が生まれる条件の一つに、参加者と外部を隔てる境界が含まれています。
1936年のベルリンオリンピックでは、政権が大会を使ってドイツを平和的で秩序ある国家として国外に演出しました。大会期間中には反ユダヤ的な標識が一時的に撤去され、迫害や軍国主義の実態は隠されました。聖火リレーが近代オリンピックに導入されたのもこの大会です。旗、行列、制服、音楽、スタジアムを埋める観客。これらを組み合わせれば、人々に自分が巨大な歴史の一部になった感覚を与えられます。その熱は人間の尊厳を祝うことも、権力者を神格化することもできます。集合的沸騰が証明するのは、その思想の正しさではなく、多くの人が同じ感情を共有したことだけです。しかし熱の中では、この二つが混同されやすくなります。
政治集会でも同じことが起きます。本来、政策は比較できます。利益と損失を検討し、条件が変われば支持を変えても良いはずです。ところが立場が儀礼によって神聖化されると、政策への疑問が共同体への裏切りになります。同じ色を身につけ、同じ敵を非難する。政治は判断の対象ではなく、所属の証明になります。
だから群衆や行事を見るときは、どれほど感動したかだけでなく、何が神聖化され、誰が外側へ置かれ、何を疑うことが許されなくなったかを見る必要があります。参加する前に一歩引いて、熱の向かう先を確認する習慣は、日常生活でも役立ちます。
祭りは非効率だからこそ、共同体を体で経験させる仕組みとして続いてきました。負担や熱をどう使うかは、参加する側の意識にもかかっています。忙しい日常でも、小さな同期行動、自分で選べる負担、時間の区切りを意識すると、共同体の感覚を作り直すことができます。ただし熱に流されず、外側に置かれる人がいないかを見る視点も忘れないようにしたいところです。