絵に触れる時間は、特別な才能がなくても、記憶の手がかりを増やしたり、自分の価値観に気づいたりするきっかけになります。ここでは、絵を見る・描くことで自然に使われる力を、日常で試せる具体的な行動とともに紹介します。完璧を目指さず、できる範囲で取り入れることを前提にしています。
取り組む順番としては、まず「見る」ことから始め、慣れてきたら「描く」ことを少し加えるのが負担を減らす近道です。美術館に行かなくても、身近な一枚の絵やポスター、街の景色で十分です。
覚えたいことをイメージに結びつける
文字だけの情報より、色や形、情景としてイメージできる情報のほうが記憶に残りやすいという考え方を、心理学では画像性効果と呼びます。さらに言葉とイメージを組み合わせると、思い出すための手がかりが増えるとされます。
たとえば「赤いりんご」という言葉だけではなく、実際の赤いりんごの見た目を頭に浮かべるようにします。名前や予定を覚えるときも、相手の顔の特徴やその場の景色とセットでイメージすると、思い出しやすくなることがあります。
ただし、絵が好きだからといって誰でも記憶力が高くなるわけではありません。ポイントは、覚えたい内容を自分なりのイメージに変換することです。イメージが浮かびにくい場合は、無理に絵を描かず、写真やアイコンを手がかりにしても構いません。
全体から細部へ視線を動かす
絵を見るときの視線を調べた研究では、最初は全体を広く見て、その後で特定の場所を詳しく見るという変化が確認されています。心理学では、目に入る情報の中から一部に注意を向けることを選択的注意と呼びます。これは、目に入った情報をばらばらに捉えるのではなく、まとまりとして意味づけようとする働きと関係しています。
日常では、通勤中に看板の配色や街路樹の形、建物の窓の並びを「全体→気になる部分」の順で見るだけでも、普段は見落としている情報に気づくきっかけになります。一度にすべてを見ようとせず、気になった一箇所だけに注意を向けるのが続けやすい方法です。
じっくり見るのが苦手な場合は、スマートフォンで写真を撮り、あとで見返す方法もあります。観察の対象は絵でなくても、身の回りの色や配置で代用できます。
正解のないものに「なぜ」を向ける
絵を見るときは、なぜこの色が使われているのか、なぜここに配置されているのかと、目に入った情報を整理しながら意味を考える作業が起こります。正解がないからこそ、自分の言葉で理由を考える余地が生まれます。
実践するなら、好きな作品やポスターを前に「なぜこの色なのか」「なぜここに人物がいるのか」と問いを一つだけ立ててみます。答えが出なくても、考える時間そのものが情報を整理する経験になります。問いを増やしすぎると疲れるため、一枚につき一つが目安です。
考えるのが難しい日は、気になった色を一つ選んで「明るい感じがする」など短い言葉にするだけでも十分です。
描かれていない前後を思い描く
目の前にあるものを整理して考えるのが思考力なら、目の前にないものを思い描くのが想像力です。絵を見るとき、この場面の前には何があったのか、この先に何が起こるのかを考えることは、まだ見えていないものを頭の中に組み立てる経験になります。
たとえば、人物が描かれた一枚の絵を前に「この人はこれからどこへ行くのだろう」と想像してみます。物語を作るのが苦手なら、色の組み合わせや光の雰囲気だけを思い浮かべるのでもかまいません。こうした想像は、データにないものや答えのないものを考える力につながる可能性があります。
ただし、想像力がすぐに高まるとは限りません。あくまで、普段使わない見方を試す余白として捉えるのが無理のない向き合い方です。
人物の気持ちを推測して視点を広げる
絵に人物が描かれている場合、この人はどんな気持ちなのだろうと相手の立場に立って考えることがあります。同じ絵を見ても、悲しそうに見える人もいれば、何かを決意しているように見える人もいます。その違いに目を向けると、自分とは異なる感じ方があることに気づけます。
日常では、人物画や写真を見て「この人は今、何を感じていると思うか」を自分なりに言葉にしてみます。他者の気持ちを決めつけるのではなく、あくまで想像として扱うことが大切です。抽象画の場合は、色や形から受ける印象を「落ち着く」「ざわざわする」と言葉にするだけでも、自分の感覚に気づく手がかりになります。
注意がそれても戻す経験として描く
絵を描いていると、手を動かしながら今描いている部分に注意を向け続けます。とはいえ、意識は常に一つのことに向いているわけではなく、別のことを考えてしまうこともあります。このとき、描いている部分を確認して再び注意を戻す繰り返しが、注意を適切な対象に向け直す経験になります。
イギリスの大学で行われた小規模な実験では、退屈な録音メッセージを聞きながら図形を塗りつぶしたグループは、何もせず聞いていたグループより約29%多く内容を思い出したという結果があります。これは図形を塗る作業が注意の散漫を防ぐ手助けになる可能性を示していますが、絵を描くこと全般にそのまま当てはまるとは言い切れません。
実践としては、塗り絵や模様を描く、余白に簡単な線を引くといった単純な作業から始められます。注意がそれたと感じたら「今はここを塗っている」と対象に意識を戻すだけで十分です。長時間続ける必要はなく、数分で切り上げても構いません。
好きの理由から自分の価値観を知る
絵を見たり描いたりしていると、こういう世界観が好き、自分はこういう表現に惹かれるという好みが少しずつ分かってきます。その「好き」を掘り下げていくと、自分が何を大切にしているのか、どんなものに価値を感じるのかに気づくきっかけになります。
たとえば、好きな作品を一つ選び、どこに惹かれるかを短くメモしてみます。色なのか、構図なのか、描かれている人物の表情なのか。繰り返すうちに、自分の価値観の傾向が見えてくることがあります。上手に描けなくても、特別な知識がなくても構いません。
メモを続けるのが負担な場合は、作品名や作者を調べるだけでも、自分の関心の方向を知る手がかりになります。
絵を見る・描くことは、能力を伸ばすための訓練ではなく、自分の感じ方や考え方に気づくための余白です。今日できるのは、身近な一枚をじっくり見る、気になる色をメモする、余白に線を引くといった小さな行動です。無理に続けようとせず、気が向いたときに触れるくらいの距離感で取り入れてみてください。