人格は内側の感情ではなく、選んだ行動で決まる
「心の底から思いやれる人だけが本物だ」と思い込むと、心に少しでも愚痴や冷酷な本音が浮かぶたびに、自分は不純だと感じてしまう。しかし、感情は天候のようなもので、意思の力で完全に止められるものではない。
たとえば、職場で感情的に振る舞う同僚に「なぜ自分で考えないのか」と腹が立ったとしても、実際に相手へぶつけず、声のトーンを落ち着かせて対応したなら、外側に差し出したのは配慮という現実だ。心の中の泥水をそのまま渡したのではなく、理性というフィルターを通した一杯の水を渡している。
アリストテレスは、人は正しい行いをすることによって正しくなり、節制ある行いをすることによって節制ある人になる、と説いたとされる。人格は生まれつきの魂の状態ではなく、日々の行動の積み重ねによって形づくられる。この考え方に立てば、感情の揺らぎを抱えながらも丁寧に振る舞うことこそ、その人の人格そのものだ。
意思の力で差し出す配慮は、偽物ではない
生まれつき悪意を抱きにくく、自然に笑顔でいられる人もいる。それは一つの気質であり、周囲を和ませる長所だろう。しかし、無意識の気質から出る愛想と、自分の意思で感情を律して差し出す配慮には違いがある。後者は、自己制御というエネルギーを支払っている。
心の中で摩擦熱を感じながらも、相手のために穏やかな態度を貫くのは、受動的な善意ではない。本能に流されず「ここでは傷つけない振る舞いをする」と覚悟を決める、能動的な意思の勝利だ。だから、自分を律して差し出した優しさは偽物ではなく、むしろ理性によってつくられた高度な営みといえる。
自己制御のエネルギーは有限である
ただし、この生き方には避けられない影がある。感情を抑え、場の調和を守るために前頭前野を働かせ続けると、帰宅した瞬間に糸が切れたように動けなくなることがある。心理学では、この消耗をエゴデプレッションと呼ぶ考え方がある。心理学者ロイ・バウマイスターの研究で知られるように、自己制御のエネルギーは無限の泉ではなく、スマートフォンのバッテリーのように有限だと考えられている。
感情をそのまま垂れ流す人は、このバッテリーをほとんど消費しない。一方、心の苛立ちを押し殺し、穏やかな笑顔を差し出し続けた人は、朝から晩まで理性をフル回転させている。帰宅後に動けなくなるのは、意思が弱いからではなく、他者を傷つけずに一日を終えるために、持てるエネルギーを使い果たした証拠だ。
大人の対応ができる人ほど、理不尽を引き受けてしまう
さらに、感情を制御できる人の周りには、感情を制御できない人が集まりやすいという構造もある。怒鳴り返さない人、大人の対応で納めてくれる人だと学習されると、理不尽な感情の受け皿として選ばれてしまうことがある。
心の中では「なぜ自分が他人の感情の後始末をしなければならないのか」と怒りが湧いても、ここで投げ出せば全体が破綻すると踏みとどまってしまう。この踏みとどまりが、自己制御を続ける人を深く疲れさせ、孤独に追い込む要因になる。
優しいふりをしてきた自分を責める必要はない。むしろ、湧き上がる感情を認識しながらも、相手や場に配慮を選べることは、理性と意思の働きによるものだ。ただ、その力を保つには、すべての理不尽を一人で引き受けないための境界も必要になる。