私たちが「これはこういうものだ」と疑わずに使っている区切りは、自然の側に最初から刻まれているわけではありません。名前をつけるという営みを通して、後から生まれてくるものです。そして、その区切りは人を分けるだけでなく、人と人をつなぐ仕組みにもなります。文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』で扱われている考えをたどりながら、「当たり前」の正体と、人間関係のルールの見方を考えてみます。
なお、ここで紹介する内容は、同書や言語学の議論を一つの読み方として整理したものです。研究の細部や解釈には諸説あり、すべての人に同じように当てはまるわけではありません。
「蝶」と「蛾」を分けているのは、目ではなく言葉
日本語を使う私たちは、蝶と蛾をはっきり別のものとして思い浮かべます。ところがフランス語では、この二つをパピヨンという一つの言葉で表します。フランス語しか知らない人の頭の中には、蝶と蛾という区別そのものが浮かびにくい、という指摘があります。
言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言葉とそれが指す対象の間には必然的なつながりがないと考えました。これを言葉の恣意性と呼びます。虹の色の数が国によって五色だったり六色だったりするのも、色彩に名前を与える区切り方が違うからだ、という説明がされます。
ここから取り出せるのは、「自分の見え方」は世界そのものの写しではない、という視点です。私たちは知らないうちに、育った言葉や習慣が用意した区切りを使って、目の前のものを分けています。ただし、これは「知覚のすべてが言葉で決まる」という主張ではありません。言語学の議論として提示された一つの見方であり、個人差や文化差も大きい領域です。
「未開」という呼び方も、誰かが引いた線
レヴィ=ストロースは、抽象的な理屈を並べる哲学に物足りなさを感じ、ブラジルへ渡ってアマゾン流域の先住民のもとで調査を行いました。そこで、当時「未開」と見なされていた人々の知性に触れたことが、その後の彼の問いの出発点になったと伝えられています。
「未開」という言葉自体、すでに一つの区切りです。自分たちを基準にして、そこから遠いものを遅れたものとして括る。この線引きがどこから来たのかを問い直す構えが、この書名には表れていると読めます。野蛮かどうかではなく、具体的なものに即して世界を細やかに分け、組み合わせていく営みを正面から扱おうとしたわけです。
一つの音は、他の音との関係の中で意味を持つ
ソシュールの影響を受けたプラハ学派は、言語を成り立たせている最小の音の単位である音素に注目しました。中心人物の一人、ロマン・ヤコブソンは、音素は単独で意味を持つ実体ではなく、他の音素との対立関係の中に置かれて初めて働くと説明しました。
じゃんけんを思い浮かべると分かりやすいでしょう。グーという記号そのものには、何の意味もありません。しかし、パーやチョキとの関係が与えられると、じゃんけんという全体の構造が立ち上がり、グーは「チョキに勝ち、パーに負ける」という意味を持ち始めます。
この考え方を人間関係にそのまま当てはめるのは慎重でありたいところです。ただ、「自分の特徴は単体では意味を持たず、置かれた関係の中で意味が変わる」という見方は、自分を固定的に決めつけずに済む助けになります。たとえば仮の例として、同じ「慎重さ」が、ある場面では頼りになると評価され、別の場面では優柔不断に見える、ということが起こります。性質そのものが変わったのではなく、関係の網の目が変わったのです。
「禁止」は、縛るためだけのものではない
レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で扱ったのが、近親婚を禁じるインセスト・タブーです。ほぼすべての社会に見られる一方で、なぜ存在するのかは長く説明しきれませんでした。遺伝的な悪影響という説明は、それを犯して滅んだ社会の存在を示せないこと、近親婚の範囲が社会ごとにばらばらであることから、十分とは言えません。心理的な嫌悪感があったとしても、それが社会の決まりになる理由にはならない、という反論も残ります。
そこで彼は、言語学から得た発想を人類学に移し、この謎を構造として解こうとしました。導かれた説明は、近親婚の禁止とは、別の集団から女性を譲り受けるという形でしか相手を得られない、という仕組みだというものです。自分の集団が続いていくためには、他の集団に女性を送り出す必要がある。つまり、集団同士が大切なものをやり取りする贈与のシステムが、禁止という原理を生み出した、という見方です。
この説明の面白さは、禁止が「してはいけない」という形をとりながら、同時に「ではどうつながるか」という回路を作っている点にあります。人は何かを受け取ると、お返しをしなければという気持ちを抱きやすい。この返報性の原理が、集団の間を行き来する関係を支えている、という整理になります。
身近な決まりごとを、別の角度から見てみる
この視点は、職場や家庭のルールを見直すときの助けにもなります。仮の例として、「報告は必ず上司を通す」という決まりがあったとします。手間だと感じる場面はあるでしょう。それでも、誰が誰に何を頼んだかを周囲に見える形にする装置として働いている面はあります。
ただし、すべての決まりがつながりを生むわけではありません。誰かを従わせるためだけに機能していたり、すでにある不均衡を固定してしまったりする決まりもあります。見分ける手がかりは、「このルールは誰と誰の間の何を保っているのか」を一度言葉にしてみることです。説明できないまま残っているなら、それは手放したり、作り替えたりする余地があるかもしれません。
自分の「当たり前」を組み替えてみる
ここまでの話を、日常で試せる形にすると次のようになります。どれも効果を保証するものではなく、合う合わないがあります。
- 違和感を覚えたとき、「これは自分が育った区切りなのかもしれない」と一度置いてみる。
- 相手の言い分を否定する前に、「相手の世界では、どこで線が引かれているのか」を想像してみる。
- 身の回りの決まりごとに、「これは誰と誰の何を保っているのか」と問いを立ててみる。
逆に、こうした見方が負担になる場合もあります。対人関係の疲れや不安が強く、自分一人で考えるのがつらいときは、無理に考え方を変えようとせず、専門的な支援を頼る選択肢も残しておいてください。
区切りは、与えられるものではなく作られるもの
世界の区切りは、最初からそこにあったのではなく、名前をつけ、関係を結ぶ中で作られ続けています。だからこそ、いま自分が「当たり前」だと思っている見方も、唯一のものではありません。
すべてを組み替える必要はありません。ただ、息苦しさを感じたときに、「この線は誰が引いたのだろう」と一度立ち止まってみる。その問いが、関係の見え方を少し変えてくれることがあります。