不都合な真実を、あえて知りたいと思いますか。それとも、知らないままでいたいですか。古代ギリシャの悲劇『オイディプス王』は、この問いを正面から扱った作品です。先に答えを書いておくと、知ることと幸せでいることは同じではありません。それでも人が真実を知ろうとするのは、分からないままの状態が、それ自体で別の重さを持つからです。そしてこの物語は、知ったあとに何が起きるかまで見せてくれます。
逃げたつもりの道が、予言へつながっていた
物語は、テーベの王ライオスが「お前は自分の息子によって命を奪われる」という神託を受けるところから始まります。恐れた王は、生まれたばかりの息子の足に金具を打ち、山に捨てるよう命じます。しかし命じられた家来は赤子を別の国の羊飼いに託し、子どもはコリントスの王夫妻に育てられ、「晴れた足」を意味するオイディプスという名を与えられます。
成長したオイディプスは、自分が実の子ではないという噂を耳にし、神託を求めます。そこで告げられたのは、「実の父を殺し、実の母と結ばれる」という言葉でした。育ての親を傷つけたくないと考えた彼は、コリントスへ帰ることを避けて旅に出ます。その道中、すれ違いをめぐる口論から旅の一行を殺してしまう。相手が実の父ライオスだったと分かるのは、ずっと後のことです。
ここで起きているのは、単なる偶然ではありません。予言から逃れるための選択が、予言をなぞる方向へ彼を運んでいます。不安を遠ざけようとした行動が、不安の種を増やしてしまう。この形は、物語の中だけのものではありません。たとえば、仮の例として、失敗を恐れて確認を先延ばしにし、かえって事態が悪くなる、という場面があります。ただし、だからといって「避けるのが間違い」と決めつける必要はありません。そのときの彼に、ほかに選べる道がどれほどあったかは、簡単には言えないからです。
見えているのに、見えていない
テーベに疫病が広がると、オイディプスは原因を探し始めます。先の王ライオスを殺した犯人を追放すれば国が清められる、という神託を受けたからです。彼は自分が犯人だとは思いもせず、調査に全力を尽くします。招かれた盲目の予言者テイレシアスは、しかし何も語ろうとしません。追及されてついに、「この国の汚れとは、あなた自身のことだ」と告げます。
視力のある王が真実を見られず、目の見えない予言者だけがそれを見ている。この対比は、情報を得る力と、自分の姿を眺める力は別ものだ、ということを示しているように思えます。私たちも、相手のことはよく見えているのに、自分の動機や癖には気づきにくいことがあります。外から見える姿と、内側で起きていることは、いつも一致するとは限りません。
知ることと、受け止めることのあいだ
オイディプスは、国を救おうと知恵を絞れば絞るほど、破滅へ近づいていきます。ここで注目したいのは、知ることと受け止めることが、実は別の作業だという点です。知ることは、事実を手に入れる工程です。受け止めることは、その事実と自分の生活をどうつなぐかを決める工程です。この二つの間には、時間が要ることがあります。
検査の結果、相手の本音、自分の感情。何であれ、答えを知った瞬間に気持ちの整理がつくとは限りません。むしろ、知ったあとにしばらく揺れるのが普通です。オイディプスの場合は、その時間が与えられませんでした。次々と証言が積み重なり、逃げ場のないところまで追い詰められていきます。
「知りたい」と「知りたくない」で揺れたときの選び方
では、現実の場面ではどうすればよいのでしょうか。ここからは、この物語を手がかりにした提案です。効果を保証するものではないので、自分に合うものだけを拾ってください。
- 知る時期を自分で決める。すぐ調べるのではなく、「一週間は保留する」と期限を切って置いておく。
- 受け皿を先に用意する。知ったあとに話せる人を一人決めておく。書けるなら記録しておく。
- 一度に全部を知ろうとしない。いちばん知りたい一点だけに絞る。
- 知らないままでいる選択を、逃げとして責めない。今は知る力が足りない、という判断も一つの判断です。
ただし、この方法が合わない場合もあります。健康や安全に関わることで、放置すれば危険が大きくなる種類の情報は、保留が適切とは言えません。そのときは一人で抱え込まず、医療機関や相談窓口など、専門の支援につながることを検討してください。
悲劇に触れるという、少し遠回りの整え方
アリストテレスは、悲劇が観客の緊張や興奮を呼び起こし、そのあとに解放感をもたらす働きをカタルシスと呼びました。これは古代の芸術論における説明であり、現代の心理学の用語としてそのまま通用するわけではありません。それでも、重い物語に触れて感情が動き、少し軽くなる感覚は、多くの人が知っているものです。
とはいえ、疲れているときに悲劇を読むと、かえって気持ちが沈むこともあります。合わないと感じたら、途中で本を閉じてかまいません。フロイトはこの物語から名を取って、幼児期の心理に関する概念を提唱しましたが、それが現在の心理学で普遍的な発達段階として扱われているとは限りません。物語の読み方も、一つの説も、絶対ではありません。
知ったあとに、どう生きるかを選ぶ
テイレシアスが告げたとおり、この先のオイディプスは「今は目が見えるが盲人」「今は豊かだが物乞い」という言葉をなぞっていきます。予言は避けられませんでした。それでも、彼が真実を求めたこと自体が無意味だったわけではない、と私は思います。彼は知らないままでいることを選ばず、最後まで問い続けました。
知ることは、それだけで人を幸せにはしません。けれど、知ったあとにどう生きるかを選ぶ余地は残ります。すぐに答えを出せなくても、揺れている時間そのものが、あなたの一部になっていきます。急がなくて大丈夫です。