体罰も競争も減ったのに、不登校は過去最多
先に答えを書きます。不登校が増えているのは、子どもが弱くなったからではありません。罰を与えない、競争をあおらないという方針が、困っている子への具体的な支援とセットにならなかった。その隙間で、助けを必要とする子が取り残されている。これが、いまの状況を考えるときの一つの見方です。
文部科学省が公表した調査では、令和5年度(2023年度)の小中学校の不登校は約34万6000人にのぼり、過去最多の水準にあります。一方で、体罰は1947年の学校教育法で禁止され、いじめや行き過ぎた競争をめぐる方針も見直されてきました。子どもを傷つけない方向へ進んできたはずなのに、学校から離れる子は増えている。この矛盾をどう読むかが、ここからの主題です。
不登校の人数や法制度の内容は公開されている情報ですが、そこから何を読み取るかは解釈です。ここでは「こう考えると筋が通る」という見方を示していきます。
「優しさ」が、責任の置き場所を変えてしまう
いじめやSNSのトラブルが起きたとき、学校が「家庭のスマホ管理の問題ですね」と返してしまうことがあります。担任の先生が悪意で言うのではなく、これ以上踏み込むと自分が責められる、という感覚が先に働くのでしょう。結果として、いちばん困っている子の支援が止まります。
同じことが、学習のつまずきにも起きます。「みんな平等だから」という理由で個別の補習が断られ、わからないまま授業が進む。手を上げても「もう少し考えてみよう」で終わってしまうと、子どもは質問することをやめます。テストの点数だけが返ってきて、教室が「自分の苦手が可視化される場所」に変わっていく。これは仮の例ですが、こうした積み重なりが学校を遠ざける力になります。
学校教育法や教育機会確保法は、学校が組織として対応すること、不登校を問題行動として扱わないことを定めています。ただ、制度の趣旨と現場の運用は別物です。先生の側にも事情があります。保護者からの強い苦情、長時間労働、指導すれば炎上し、しなければ放置だと責められる。何もしないことが最も安全な選択になってしまう職場では、「見守る」が「見て見ぬふり」に近づいていきます。
学ぶ内容は、静かに難しくなっている
2020年度から小学校で新しい学習指導要領が全面実施されました。英語が教科になり、プログラミングや、資料を読んで自分の言葉で書く力が加わっています。内容が減ったのではなく増え、単元によっては学ぶ時期が早まった、という指摘は以前からあります。
ここで効いてくるのが、家庭の支援力の差です。宿題を見る時間があるか、塾や通信教材に回せる余裕があるか。共働きで夜まで仕事、物価も上がって学習にお金を回せない、という家庭は珍しくありません。学校の授業だけで理解できる子は伸び、そうでない子は静かに置いていかれる。努力の問題ではなく、条件の問題です。
「うちの子は普通」という気持ちが、支援を遠ざける
感覚の過敏さや学習のつまずきが続いたとき、受診や通級を勧められて「うちの子を障害扱いしないでほしい」と感じる親は少なくありません。これは責めるべき話ではありません。親自身が子どもの頃に「変わった子」と扱われた経験、近所の目、親世代から受け継いだ価値観。そうしたものが重なって、支援の話が「レッテル」に聞こえてしまいます。
ただ、その戸惑いが支援の扉を閉ざすと、いちばん長く困るのは子どもです。偏見は子どもを守る盾ではなく、成長の機会を奪う鎖になり得ます。
制度の違いも整理しておきます。支援学級は、日常的に少人数で個別の支援を受ける場です。通級による指導は、普段は通常学級に在籍しながら、必要な時間だけ別の場で専門的な指導を受ける仕組みです。どちらも希望すれば必ず入れるわけではなく、窓口が狭い地域もあります。理解が広がるほど希望が増え、入れない子が目立つ、というねじれも起きています。
競争を全部悪にすると、努力の置き場がなくなる
順位を出さない、表彰をしない。傷つく子を減らすための配慮としては理解できます。けれど、努力してできるようになったことを誰にも認めてもらえないと、頑張る意味が見えなくなる子もいます。運動会や体育で記録を伸ばしてきた子が、「勝ちたい」という気持ちをなかったことにされる。これもまた、別の息苦しさです。
ここは個人差が大きいところです。競争が強い苦痛になる子もいれば、評価がないと張り合いを失う子もいる。競争そのものを消すのではなく、人と比べて傷つける形から、自分の記録として残す形へ変えていく。そういう折り合いのつけ方を探る余地はありそうです。
見た目で序列がつく教室
高学年になると、容姿をからかう声が上がります。集合写真を見て心ない言葉をぶつけられる、SNSの裏アカウントを晒される。外見で人の価値を決める考え方をルッキズムと呼びますが、これは大人の社会だけの話ではありません。教室の中にも「かわいい子が上」という空気が生まれ、そこに乗れない子が標的になります。
不登校になったあと、整形の動画ばかり見てしまう、という状態は、自分を変えれば戻れるという希望であり、その希望にすがらないとやっていられない苦しさでもあります。「戻らなくていい」と言うのは簡単ですが、本人にとっては簡単な話ではありません。
不登校は「壊れた証」ではない
学校に行かないという選択が、自分を守るための自己防衛として働いている場合があります。毎日がつらくて、行かないことでようやく息ができる。それなら、学校を離れることは逃避ではなく、必要な距離の取り方です。
ただし、すべての不登校がそうだとは言えません。行きたいのに行けない、朝になると体が動かない、という場合もあります。原因も、回復の道筋も、一人ひとり違います。教育機会確保法は、不登校を問題行動とみなさないこと、休養が必要な場合があること、学校以外の学びの場を確保することを定めています。制度としては「休むことも認める」方向に動いているのです。
それでも、支援が届かずに孤立する子はいます。だからこそ、制度の話と、目の前の一人の話は分けて考えたいところです。
今日から試せること
学校に相談するときは、「なぜ行けないのか」ではなく「今どこでつまずいているのか」を具体的に伝えると話が進みやすくなります。担任だけでなく、学年主任、スクールカウンセラー、管理職など、複数の窓口に同じ内容を伝えておくのも方法です。
学校以外の相談先としては、自治体の教育支援センター(適応指導教室)、教育相談窓口、スクールカウンセラー、地域の発達支援センターや医療機関があります。名称や対象は地域によって違うので、教育委員会の窓口で確認するのが確実です。発達の特性が気になる場合も、診断名をつけるためではなく、困りごとに合った工夫を知るために相談する、という考え方があります。
家でできることとしては、「なぜ行けないのか」を問い続けないこと。生活リズムを無理に戻そうとすると、パニックや激しい反発につながることがあります。夜のほうが落ち着くなら、その時間を認めつつ、朝の負担を一つずつ減らす。そういう順番のほうが現実的です。
合わない場合もあります。支援機関の対応がしっくりこない、窓口が遠い、費用がかかる、家族の理解が得られない。一つがだめでも、次の選択肢はあります。ただし、気分の落ち込みが続く、眠れない、体調不良が続くといった場合は、教育の話ではなく医療の話になります。この記事は診断や治療の代わりにはなりません。
おわりに
優しさは、方針として掲げるだけでは届きません。罰を与えない、競争をあおらないという姿勢は大切です。けれど、それだけでは、つまずいている子に手が届かない場面が残ります。
学校に行けない日が続いているなら、それは怠けでも甘えでもない可能性があります。まず問うべきは「なぜ行けないのか」ではなく、「今どこがしんどいのか」。そこから始めることが、優しさを形にする最初の作業になります。