会議で発言したあと、「あの言い方でよかったのか」と頭から離れない。任された仕事がうまくいかないたびに、自分の選択のせいだと思ってしまう。こうした重さの中心には、「私がやった」「私が決めた」という感覚があります。非二元の教師ラメッシ・バルセカールは、その感覚自体を幻想として観察するよう繰り返し語っています。ここでは、仕事や対人関係の場面に即して、この見方を整理してみます。
「私がやった」は後から付け加わる解釈
この見方では、呼吸や心拍と同じように、思考や決断も自然に起こります。次に何を考えるかを、あらかじめ自分で決めているわけではありません。言葉が出て、行動が起こったあとに、「私がやった」という感覚が後から生じる。この後付けの所有が、結果への過剰な責任感や未来への不安を生むとされます。
たとえば、会議で意見を言う場面を考えてみます。頭に浮かんだ言葉は、過去の経験、受けてきた教育、その場の空気、体調など、多くの条件から出てきます。そのすべてを自分で選んだわけではない。それでも後から「私があの発言をした」と引き受けると、言い方への後悔や相手の反応への心配が始まります。
ここで言う「行為者ではない」は、仕事上の説明責任や謝罪を放棄する意味ではありません。むしろ、「自分の選択がすべてを左右する」という思い込みを外すことで、現実的な対応に集中しやすくなるという整理です。
対人関係で選べる対応を早めに示す
上司に提案した企画が不採用になった。同僚との会話で沈黙が続いた。そんなとき、「私がもっと上手く説明すればよかった」「私が場を和ませなければ」と考えがちです。この見方では、その場で起きた反応は、相手の経験や組織の条件、タイミングなど複合的なものとして扱います。自分の言動だけが原因ではありません。
だからといって、何もしないわけではありません。次に取れる行動はいくつかあります。
- 企画の意図を文書で補足し、改めて共有する
- 相手に質問して、何が懸念なのかを確認する
- 一度その話題から離れ、相手の反応をしばらく観察する
ただし、相手との関係性や安全面によっては、距離を置くことが難しい場合もあります。ハラスメントが疑われる状況や、心身の不調が続く場合は、この考え方だけで解決しようとせず、信頼できる相談先や専門機関につなぐ判断も必要です。
「自由意思はない」という主張をどう扱うか
この見方は、科学的に証明された事実というより、苦しみを軽くするための観察の枠組みです。「自由意思はない」と聞くと、無力感や責任放棄に感じるかもしれません。しかし、ここで言われているのは、すべてが決まっているから何もしなくていい、ということではありません。「私がすべてをコントロールしている」という思い込みが生む緊張を手放すことです。
実際には、選択が生まれる背景には、過去の記憶、教育、文化的な条件、身体の状態、その瞬間の環境があります。そのどれも、自分で選んだわけではない。この意味で、いわゆる自由意思は存在しないとされます。ただ、この考えに納得できない場合は、無理に受け入れる必要はありません。
日常でできる観察のしかた
特別な訓練は必要ありません。気づいたときに、次のことを数秒だけ確認してみます。
- 呼吸や心拍が、自分の意思とは関係なく続いていること
- 次に浮かぶ考えを、あらかじめ決められないこと
- 「私がやった」と感じた瞬間、その感覚が後から来ていること
これは瞑想の方法ではなく、判断せずに起きていることを見るだけの観察です。合わないと感じる場合は、無理に続ける必要はありません。
罪悪感や誇りが軽くなるとき
仕事で成果が出たときの誇りも、ミスをしたときの罪悪感も、「私がやった」という所有から生まれます。この所有感が薄れると、結果への執着が減り、淡々と次の行動に移れることがあります。ただし、これは感情が消えるという意味ではありません。怒りや落ち込みが起きても、それを「自分のせいだ」と責め続ける時間が短くなる可能性がある、という程度の変化です。
この見方をすべての人に勧めるものではありません。「私がやった」という感覚は、仕事の達成感や人間関係のつながりを支える面もあります。ただ、責任感や後悔で動けなくなっているとき、「行為者としての私」を一度脇に置いて、起きていることを観察してみると、選べる対応がいくつか見えてくることがあります。