完璧な世界のために、自分の自由を手放すべき? 『ユートピア』が問いかけること
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完璧な世界のために、自分の自由を手放すべき? 『ユートピア』が問いかけること

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「完璧な世界が手に入るなら、そのために自分の自由を差し出せますか」。トマス・モアが1516年に発表した『ユートピア』は、約500年たった今もこの問いを手放させません。先に答えを書いてしまうと、この本は「自由を捨てて理想を取れ」とも「自由こそ大事だ」とも決めていません。むしろ、理想を掲げるほど誰かの居場所が削られていくという構造を、読者の前に静かに置いています。

完璧を目指すことと、自分の自由を守ることは、必ずしもどちらかを選ぶ話ではありません。ここが、この記事でいちばん伝えたい点です。

なぜ「理想の国に仕えない」という選択が出てくるのか

『ユートピア』は対話篇です。舞台は現在のベルギーのアントワープ。登場するのは三人で、一人は作者であるトマス・モア自身、もう一人は実在の友人ピーター・ジャイルズ、そして三人目がポルトガル人の哲学者で冒険家のラファエル・ヒスロデイです。ラファエルはアメリゴ・ヴェスプッチの航海に同行し、各地を巡ったという設定の、物語で唯一の架空の人物です。

物語は、モアとピーターがラファエルに「あなたほどの知識と経験があるなら、国王の側近として国のために尽くすべきではないか」と問うところから始まります。ラファエルは静かに首を横に振ります。

彼が挙げる理由は、宮廷の現実です。多くの王は平和よりも戦争を好み、社会の安定よりも領土の拡大に関心を向けている。側にいる者たちは他人の意見に耳を傾けず、自分こそが正しいと疑わない。そこに本当の見識を持った人物が加われば、自分たちの名声や立場が危うくなると感じて、すぐに敵意を向けてくる。そうした光景を何度も見てきた、というのです。

さらにラファエルは、伝統を盾にして改革を拒む姿勢も批判します。過去の慣例を持ち出すのは保守のように見えて、実際には都合の悪い変化を止め、既得権を守っているだけではないか、と。ここから先は、この対話をどう読むかという解釈になりますが、モアは自分の心の中にあった葛藤を、二人の議論という形で書き留めたのではないか、と読むことができます。公共のために力を尽くすべきか、自分の理想を貫くべきか。その答えを、彼は簡単には出せなかったのでしょう。

理想の社会を描くほど、外に押し出される人がいる

この対話の延長で、『ユートピア』が強く批判しているのが、当時のイギリスの現実です。窃盗を犯せば死刑という厳しい法律があったにもかかわらず、盗みは一向に減りませんでした。減らないのは、人々が盗みをしなければ暮らせないほど貧困に追い込まれていたからです。

その背景にあったのが、エンクロージャーと呼ばれる動きです。農民たちが共有していた農地を、地主が垣根や柵で囲い込み、私有地として独占する行為を指します。当時ヨーロッパでは羊毛の需要が伸びており、小麦や野菜を育てるより羊を飼って毛を売るほうがはるかに儲かりました。そこで地主は農民を追い出し、畑を潰して牧場に変えたのです。行き場を失った人々は都市へ流れ、低賃金の労働か盗みしか残されませんでした。

この構造は、形を変えて今も残っていると指摘されることがあります。1964年にイギリスの社会学者ルース・グラスが名づけたとされるジェントリフィケーションも、その一つです。再開発や美観整備という名目の裏側で地価や家賃が上がり、元から暮らしていた人が転居を迫られる。東京、大阪、京都といった都市でも見られる現象です。観光地に人が集まり、物価や地価が上がって地元の生活がじわじわと侵食されていくオーバーツーリズムも、似た構造を持っています。

ここで見えてくるのは、理想の街、効率的な経済、美しい景観といった「良いもの」が、必ずしも全員の居場所を守るわけではないという点です。誰かにとっての理想は、別の誰かにとっての立ち退きであり得ます。

自分の生活に置き換えてみる

これは国家の話に見えますが、身近な場面にも同じ形が現れます。仮の例として、職場のチームで「誰もが気持ちよく働ける完璧な職場」を目指していたとします。そのために自分だけ休日出勤を引き受け、会議では本音を飲み込む。理想に近づいているように見えて、実際には自分の自由を少しずつ差し出している、ということが起こります。

トマス・モア自身の人生も、この問題を抱えていました。ロンドンの裕福な法律家の家に生まれ、オックスフォード大学で学び、弁護士や裁判官を経て1529年には大法官に就任します。しかしヘンリー八世の離婚問題をきっかけに国王と対立し、1534年に逮捕、翌年に処刑されました。「まず国王に仕え、最後は神に仕えるものとして死ぬ」という言葉を残したと伝えられています。のちにその生涯は映画化され、アカデミー賞でも評価されました。

ただし、この選択を美化しすぎるのは考えものです。信念を貫いた末に、彼は命を失っています。同じ生き方が誰にでも当てはまるわけではありません。

試せることがあるとすれば

理想と自由のバランスを考えるとき、次のようなことを試す人がいます。

  • 理想を掲げる前に、そのために自分が手放すもの(時間、休息、本音)を書き出しておく
  • 何かを変えたいと思ったら、まず自分の影響が及ぶ範囲だけで小さく試す
  • 距離を取るという選択を、逃げではなく選択肢の一つとして数えておく

一方で、これらが合わない状況もあります。経済的に仕事を選べない、家族の事情でその場を離れられない、といった場合に「離れる」を勧めるのは現実的ではありません。そういうときは、心の中で線を引く、話せる相手を一人決めておく、といった小さな工夫のほうが役に立つことがあります。強い不安や疲れが長く続く場合は、この記事の範囲を超える話題です。専門的な支援を検討することも、選択肢として残しておいてください。

理想を追うとき、代償を見ないふりをしない

完璧な世界と自分の自由は、引き換えにしなくてもよい。ただ、理想を追いかけるときには、必ず誰かが、あるいは自分自身が、何かを手放しているという視点を持っておく。それが『ユートピア』から受け取れる、実用的な教えの一つです。

理想を描くことをやめる必要はありません。描いたうえで、その理想が誰の居場所を削っていないかを見る。読後に残るのは、答えよりも、そうした問いの形なのだと思います。

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