現象:ロンドンと東京、36年の時を超えた共通する後悔
ロンドンのカフェで毎週月曜に集まる50代の女性たち。全員が独身で子供がおらず、高い教育を受けキャリアを積んできた。彼女たちの一人が新聞に「フェミニズムは私の世代を裏切った」と書いた。同じ話は1988年の東京にもあった。雑誌『クロワッサン症候群』は、結婚せずキャリアを選んだ女性たちが30代で焦り始める様子を描き、ベストセラーになった。ロンドンと東京、36年の時差があっても後悔の中身はよく似ている。「仕事が先、結婚と子供はいつでもできる」と信じ、先送りしているうちに選べる時が終わっていた――それが共通の核心だ。
背景:メディアと権威が語った「仕事が先、結婚は後」
雑誌が売るために作った「自由な生き方」
1977年創刊の女性誌『ニュー・ファミリー』は、当初は若い夫婦の暮らしを扱っていた。しかし「生き方記事」にシフトし、働く女性や離婚して自由に生きる女性を大きく取り上げると部数が伸び、1980年頃には約54万部(読者の95%が女性、8割が20〜34歳)を記録した。業界資料は「生き方記事に力を移して部数を伸ばした」と記している。編集者たちが独身の自由を本気で信じていたかは不明だ。「売れる話を載せれば雑誌は売れる」という構造だけが見える。
サッチャー首相が少女に語った言葉と、彼女自身の人生
ロンドンの作家(冒頭の記事を書いた人物)が15歳の時、父親の家にマーガレット・サッチャー首相が訪れ、「女の人生では仕事の方が男とのことよりずっと大事だ」と語った。しかしサッチャーには夫と双子の子供がいた。夕食会では夫が女性たちと一緒に客間へ移るなど、家庭での役割分担も実践していた。「仕事が上」と少女に語った人物は、自分では仕事と家庭の両方を手にしていたのだ。
東京のスター作家も、途中で生き方を変えていた
結婚しないまま3人の子供を育て、自由な生き方の手本とされた日本の女性作家は、1982年(45歳)で12歳年下の男性と結婚した。『クロワッサン症候群』が出る6年前のことだ。読者が憧れた生き方を、本人は途中で変えていた。雑誌もやがて「結婚して子供を持ち、仕事と家庭を両立する女性」を中心に据えるようになり、独身の自由を読んできた読者は同じ雑誌の中で自分と同じ生き方の人を見つけにくくなった。
心理学的メカニズム:「先送り」が生む取り返しのつかない遅れ
「先送りし続ける人(デファーラー)」という概念
イギリスの研究者は、子供が欲しいと思い続けながら先送りを重ね、気づいた時には遅かった人々を「先送りし続ける人(デファーラー)」と呼ぶ。多くの女性はどこかで「生まないと決めた」わけではなく、「ある暮らし方を続けた結果としてそうなった」。「大きな決断の日」はどこにもなかった。
現在バイアスと損失回避が生む「仕事優先」の日常
行動経済学でいう「現在バイアス(今の報酬を過大評価し、将来のコストを過小評価する傾向)」と「損失回避(得ることより失うことを過度に恐れる心理)」が働く。仕事には締め切りがある(来月の締め切り、今期の数字、次の案件)。結婚には誰も締め切りを決めてくれない。だから毎回、締め切りのある方が先になる。東京のゆみ子(仮名・24歳で総合職入社)は32歳で取引先の男性に食事に誘われた時も「この案件が終わったら考えよう」と思い、案件が終わると次の案件が来た。気づけば40歳だった。
オプション価値の錯覚とプランニング・ファラシー
「いつでも選べる」というオプションには価値があるように見えるが、生物学的・社会的な期限がある以上、そのオプションには隠れた期限がある。「計画錯誤(タスク完了までの時間を楽観的に見積もる傾向)」も重なり、「そのうち何とかなる」が「手遅れ」に変わる。
データが示す現実:選ばなかったのではなく、選べる時が終わった
- 日本で50歳まで一度も結婚していない女性:1985年 4%(100人中4人) → 2020年 16%(100人中16人)。35年で4倍。
- 1970年生まれの日本女性の27%が子供を持たなかった(先進国で最高)。イギリスは1975年生まれで18%。
- 18〜34歳の未婚女性に「いずれ結婚するつもりか」と聞くと84.3%が「はい」と答える(日本の調査)。
- イギリスの調査でも、子供を持たないと決めている人はごく一部。30代で子供がいない女性のほとんどが「いつかは欲しい」と答えている。
彼女たちが後悔しているのは「結婚しなかったことそのもの」ではない。「いつでも選べる」と信じて選ぶ時を逃したことだ。ロンドンの55歳の友人は「男は敵だと教わって遠ざけすぎた。今そのツケを払っている」と言い、53歳の友人は「仕事は止まり、結婚もしないまま自分には価値がないと感じる」と語った。大学教授の友人は「一人の給料で暮らすのが年々苦しくなった」と話し、作家自身もうつ病になったと明かしている。ゆみ子(55歳)は健康診断の緊急連絡先欄で手が止まった。いつも書いていた母はもう80歳になっていた。
次世代への教訓:時代ごとに変わる「正解」と、自分で決める重要性
うつ病がひどくなった頃、ロンドンの作家は20代の学生を下宿させていた。学生は「女性の権利は信じている。でも母の世代の戦うフェミニズムは生きすぎだった」と言った。作家たちが若い頃、大人たちは「仕事が先」と言った。今の若い女性には「早く結婚して産め」と言われ始めている。言われることは世代ごとに変わる。そしてどの時代も「一つの生き方だけ」を勧める。勧めた人たちは自分の人生では仕事と家庭の両方を取っていた。
東京では64歳になったゆみ子が喫茶店で同じ雑誌の最新号を手に取り、しばらく眺めて静かに閉じた。構造は変わらない。メディアも権威も「売れる話」「都合のいい話」を発信し続ける。それに乗るか、自分のタイムラインを自分で引くか。その違いが、30年後の後悔の有無を分ける。
明日からできるアクション
- 自分の「締め切り」を明示する:結婚・出産の希望年齢を数値化し、そこから逆算したスケジュール(出会い、交際、妊活など)をカレンダーにブロックする。
- 「仕事の締め切り」と「人生の締め切り」を同列に扱う:業務予定と並べて「人生のマイルストーン」を可視化し、どちらも動かせない予定として守る。
- メディアや権威の発信を「売れる話」「立場のある人の話」として距離を置いて聞く:発信者のインセンティブ(部数、支持層、政治的目的)を想像し、自分の文脈に合わせて翻訳する癖をつける。
- パートナーシップを「いつでもできるオプション」ではなく「投資が必要な資産」として捉える:出会いの場づくり、関係構築の時間、コミュニケーションスキルを、キャリア投資と同じ予算・時間配分で確保する。
- 定期的に「今の選択が10年後にどう見えるか」をシミュレーションする習慣をつける:四半期ごとに30分、手帳やノートで将来像と書き出し、ズレがあれば軌道修正する。