「自分の道徳は、本当に自分のものなのだろうか」。この問いへの短い答えは、たぶん「半分は借り物」です。私たちが「これは良いこと」「これはしてはいけないこと」と感じる基準の多くは、生まれた時代や育った環境、周りの人の視線から受け取ったものです。19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、『善悪の彼岸』でこの前提そのものを疑いました。ここでは、彼が何を問題にしたのかをたどりながら、日々の「こうすべき」とどう付き合うかを考えます。
ただし、ニーチェが示したのは「道徳など捨ててしまえ」という単純な話ではありません。ここから先は、彼の主張として知られている内容と、そこから記事として受け取れる解釈を分けながら進めます。
ニーチェが問い直したのは「善悪」ではなく、その前提だった
1886年に書かれた『善悪の彼岸』で、ニーチェが向き合ったのは近代社会の土台です。道徳や学問、そしてその前提にある「絶対的に正しい価値がある」という考え方を疑い、その上で新しい価値の原理を探ろうとしました。単なる破壊ではなく、価値の置き直しを試みたものだと位置づけられています。
序文は、それまでの哲学者たちへの批判から始まります。真理を女性にたとえ、これまでの哲学者は真理を口説こうとして不器用に失敗してきた、という趣旨の比喩で彼らの姿勢をなじるのです。
ニーチェが問題にしたのは、哲学者たちが「人間の心理はこうだ」と一つの理論を立て、それを守ることに終始してきた点でした。彼の目には、それは真理の探求というより、自分の解釈を守るための弁護に見えていました。
なぜ道徳を疑うに至ったのか
ニーチェは1844年、プロイセン東部の小さな村で牧師の息子として生まれました。古典文献学を学び、24歳という若さでスイスのバーゼル大学の教授になります。若い時期はショーペンハウアーの思想とワーグナーの音楽に深く影響を受けましたが、後にワーグナーとは決裂し、体調不良も重なって1879年に大学を辞めました。以降は療養しながらの執筆生活に入り、この時期に価値観へ向ける視線が大きく変わったとされています。
この経歴そのものを「与えられた価値から離れていく過程」として読むこともできます。ただし、それは伝記的な背景からの一つの解釈であり、彼の思想を説明しきるものではありません。
生きる力を抑えているものは何か
ニーチェの見立てでは、当時の生理学者たちは、生き物の行動を「自己保存の本能」、つまり自分を維持し守りたいという欲求から説明していました。彼はこの説明に異を唱えます。
『善悪の彼岸』では、生きているものはすべて自分の力を放出しようとするものであり、生そのものが「力への意志」なのだ、という考えが示されます。力への意志とは、より良い場所へ向かいたい、より強くなりたいという根源的な意欲のことです。
ここから、人はただ生き延びるために生きているのではなく、自分の力を発揮するために生きている、という見方が出てきます。仮の例として、自分の個性や得意なことを出せる場がないと、人は無力感や焦りを覚えます。これを、力への意志が抑えられている状態として読むこともできるでしょう。ただしこれは一つの解釈であり、無力感の原因をすべてこれで説明できるわけではありません。
穏やかに暮らしたいという安定志向の人にも、この考えは関係します。「現状のまま平穏でいたい」という願いも、それ自体が一つの欲望です。そして、その平穏を保つには、自分の価値観や生活スタイルを守り通す強さが要ります。控えめに生きることは、力をまったく使わないことではないのです。
善悪の基準は、時代とともに動いてきた
ニーチェは、道徳が固定したものではなく、歴史の中で形を変えてきたことを示します。行為の価値を何で測るかは、大きく三つの段階を経てきたという見方です。
- 結果で測る段階:行いの善し悪しが、それがもたらした結果で判断される。成果さえ出ていれば、無理な働かせ方も美談として語られうる。
- 出どころで測る段階:行為そのものより、それをした人が誰か、家柄や身分が重視される。
- 意図で測る段階:行為者の動機や意図が問われるようになる。
第三の段階では、たとえば被災した人に手を差し伸べる行為も、見返りを求めない純粋な行いなら善とされ、評判や利益のためなら偽善として批判されます。同じ行為でも、動機次第で評価が反転するわけです。
ここで押さえておきたいのは、善悪の基準は時代によって動いてきたという点です。だとすれば、今あなたが「こうするべきだ」と感じていることも、絶対の真理ではなく、ある時代のある集団が合意した基準である可能性があります。
「これは誰の基準か」と問うてみる
では、この考えを日常でどう使えるでしょうか。ここからは提案です。効果を保証するものではありません。
- 強く疲れた場面や、理由もなく罪悪感を覚えた場面をメモしておき、そこに共通する「べき」を探す。
- その「べき」に対して「これは誰の基準か」と一度だけ問いかける。答えが出なくても構いません。
- 見つかった基準を、自分で選び直したいものと、借り物のままでも困らないものに分ける。全部を自分で決める必要はありません。
合わない場合もあります。共同体のルールや法律、相手への配慮が優先される場面では、既存の基準に従うほうが合理的です。また、価値観を選び直す作業は、心身が疲れているときには負担が大きくなります。不安や落ち込みが長く続く場合は、この考え方だけで対処しようとせず、医療や専門的な支援を検討してください。
問いを手元に残しておく
「自分の道徳は自分のものか」という問いに戻ると、答えはやはり「すべてが自分のものとは言い切れない」になります。ただし、そのことに気づく意味はあります。借り物だと分かれば、手放すか、持ち続けるかを、少しだけ自分で選べるようになるからです。
ニーチェの問いは、答えを渡すというより、問い直す余地を残します。今日の「こうすべき」がどこから来たのかを一度眺めてみる。それだけで、同じ状況の見え方が少し変わることがあります。