新卒の初任給が上がる一方で、自分たちの給与は据え置かれる。そんな職場で中堅社員が静かに辞めていくのは、金額の差そのものより、自分の我慢や経験が正当に扱われていないと感じるからです。ただし、辞めることが唯一の正解というわけではありません。ここでは、給与逆転が起きる仕組みと、自分に合う判断材料を整理します。
給与逆転は「新人が高い」だけでは終わらない
このケースでは、人手不足を背景に新卒の初任給が30万円へ引き上げられます。一方、9年目の社員は26万円のまま。月4万円の差が生まれ、入社年次が上の社員の給与を新人が追い抜く給与逆転が起きます。
ここで起きるのは、単なる金額の比較ではありません。長く働いた時間、引き受けてきた仕事、後輩を支えた経験が、給与表の上でほとんど評価されていないように見える。心理学では、自分と似た立場の人と比べて不当に扱われていると感じることを相対的剥奪感と呼ぶことがあります。給与逆転は、この感覚を強く刺激します。
「我慢の積立」は、会社の銀行ではない
9年目の社員は、毎年4000円ずつ給与が上がることを「我慢の積立」と表現します。仮に月4万円の差を毎年4000円で埋めると考えると、単純計算では10年かかります。これはあくまで仮の計算で、実際の昇給額や賞与、手当によって変わります。
けれど、会社は銀行ではありません。預けた我慢に利息がつく保証はなく、途中で評価制度が変わらないとも限りません。このケースでは、冬の賞与が13万円に減り、その原資が初任給アップに回されたのではないかと描かれます。既存社員の待遇が据え置かれるだけでなく、賞与や手当が削られると、不公平感はさらに強くなります。
中堅が消えると、残った人に仕事が移る
中堅社員が同日に退職届を出すと、残った人に業務が集まります。午前は営業、午後は経理、夕方は新人教育。さらに、やる気のある人だけに教える仕事が集中し、給与に見合う範囲で働く静かな退職が広がります。
静かな退職は、怠けているというより、努力と報酬のバランスを自分なりに調整する行動と見ることもできます。ただし、周囲の負担が増える場合もあるため、単純に肯定的な方法とは言えません。大切なのは、なぜその人が仕事量を絞ったのか、背景に不公平感や疲労がないかを見ることです。
「30万円」の見出しに隠れる固定残業代
新人の給与も、額面どおりとは限りません。このケースでは、30万円の内訳が基本給23万円と固定残業代7万円(45時間分)で、賞与や家賃手当はなしとされます。手取りは23万円程度になり、見出しの金額と実態がずれます。
固定残業代は、あらかじめ一定時間分の残業代を含めて支払う仕組みです。何時間分が含まれているか、それを超えた残業がどう扱われるかで、実際の労働条件は変わります。45時間という数字も、このケースでは残業の上限として扱われていますが、法的な位置づけや運用は会社によって異なります。給与明細や雇用契約書で、基本給・固定残業代・手当・賞与を分けて確認したいところです。
「石の上にも3年」が、人を縛る言葉になる
9年目の社員は、辞めようか迷う新人に「石の上にも3年」と言います。自分も9年耐えて主任になったから、一緒に頑張ろうと。しかし新人は過労で搬送され、自分が沈む船に人を縛りつけたのではないかと気づきます。
忍耐や継続が無意味だと言いたいのではありません。ただ、自分が耐えてきた経験を、そのまま他人に当てはめるのは危険です。同じ職場でも、置かれた条件、健康状態、家庭の事情は違います。過去の我慢は、今の誰かに同じ我慢を求める理由にはなりません。
自分の我慢を「市場」で見積もる
このケースの終盤では、会社の外の市場で自分の経験を確かめるという視点が出てきます。転職で賃金が1割以上増えた人が39.3%にのぼるという調査が紹介され、全員ではないけれど、外部に出る選択肢を知らないままでは判断材料が少なくなる、という意味の指摘があります。
これは転職を勧めるための断定ではありません。市場を見る目的は、自分の経験がどのくらいの価格帯で扱われるのかを知ることです。求人票を眺める、職務経歴書を更新する、面談だけ受けてみる。そこから、今の会社で交渉する材料を得る場合もあれば、残る理由を再確認できる場合もあります。
残る・交渉する・離れるを、自分の条件で選ぶ
給与逆転が起きている職場で、すぐに辞めるべきかと聞かれれば、答えは一律ではありません。健康を損ないそうなら離れる選択が優先される場合があります。家庭の事情で今は動きにくいなら、情報を集めながら準備する期間があってもよいでしょう。
判断のために、次のような点を書き出してみてください。
- 基本給、固定残業代、手当、賞与を分けて見たとき、自分の労働時間に見合っているか
- 昇給や評価の基準が明文化され、実際に運用されているか
- 残業申請がしやすいか、休暇を取りやすいか
- 自分の経験が、社外の求人でどのような条件として扱われるか
- 今の環境を続けることで、健康や生活に無理が出ていないか
これらは、辞めるか残るかを白黒つけるためのものではありません。自分が何に我慢しているのかを、金額と時間に分けて見えるようにするための作業です。
給与逆転そのものは、会社の採用戦略が生んだ現象です。けれど、自分の我慢をどう扱うかは、会社に任せきりにしなくてよい部分でもあります。金額だけでなく、労働条件、健康、これからの経験を並べて、自分に合う選択を考えてみてください。必要に応じて、労働組合や社会保険労務士、ハローワークなどの相談先を頼ることも選択肢になります。