悩みが尽きないとき、私たちは「もっと深く考えなければ」と思いがちです。ところがトルストイの『人生論』には、考えれば考えるほど幸福から遠ざかってしまう人がいる、という指摘が出てきます。原因は思考の量ではなく、順番です。目的を忘れた思考は、どれほど筋道立っていても「不合理」だと本書は見なします。
ここからは、その主張がどんな背景で書かれたのか、そして私たちの日常にどう置き換えられるのかを順に見ていきます。なお、本書の内容は一つの人生哲学であり、心の不調を解決する医学的な根拠を示したものではありません。
発禁処分になった『人生論』とは何か
レフ・トルストイは19世紀ロシアを代表する作家で、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』といった長編によって世界的な評価を得ました。しかし大きな成功のあと、彼は強い孤独感や虚無感に苦しむ時期を過ごします。
その中で目を向けたのが、過酷な労働をしながらも信仰を保って生きる民衆の姿でした。やがてキリスト教の教えを軸にした独自の思想を築き、それをまとめたのが『人生論』です。原題は「生命について」。生命は不滅であり、人間の死は存在しないという趣旨の主張が含まれていたため、当時のロシア政府は国家を揺るがす内容と判断し、発売を禁じたと伝えられています。
禁止された本はやがて国外へ渡り、翻訳を経て読まれるようになりました。日本で『人生論』として親しまれているのは、その流れの中にある一冊です。
幸福を遠ざけるのは「考える量」ではなく「順番」
本書の中心にあるのは、理性の働かせ方についての考え方です。要点はこうです。理性的な活動とは、何のために考えるのかという目的を忘れず、その目的にとって重要なものから順に考えていくこと。逆に、目的を見失ったまま考え続けるのは、どれほど論理的であっても不合理な活動である、と。
目的を先に、手段を後に
たとえば、将来プログラマーになりたいと考えている人がいるとします(これは説明のための仮の例です)。このとき、高性能なパソコンを選ぶことと、プログラミング教室の費用を比べることのどちらを先に考えるべきでしょうか。どちらも実際に必要な検討ですが、本書の基準でいえば優先度が高いのは「なぜその仕事を目指すのか」「それによって何を成し遂げたいのか」という内面の問いです。
目的が定まらないまま手段の比較に時間を使うと、努力している感覚はあっても前に進みません。本書が指摘するのは、こうした順序の取り違えを誰もがやりがちだという点です。
「動物的な自我」を幸福と取り違える
トルストイはさらに踏み込み、人間は自分の幸福のために理性の法則に従う義務がある、という趣旨の主張を展開します。動植物に理性はないが、人間にはある。だから人間は理性に従って生きるべきだ、という論理です。
ここで本書が批判するのは、自分さえ楽しければいい、自分さえ得をすればいいという自己中心的な満足を幸福だと勘違いする生き方です。それは動物と変わらない在り方であり、人間の幸福とは程遠い、とされます。少し厳しい言い方ですが、幸福を「快楽の合計」ではなく「生き方の質」として捉え直す視点だとも言えます。
ただし、理性だけを唯一の基準にするこの立場には、現代の感覚からすると引っかかる点もあります。感情や体調、置かれた環境の影響を軽視しているように読めるからです。
受け取るときに気をつけたいこと
本書の主張を、そのまま現代人の処方箋として使うのは無理があります。理性で整理しきれない感情や、身体的な疲れの影響は人によって大きく異なりますし、つらさが長く続く場合には、哲学書を読むことよりも専門家や支援機関に相談するほうが適切なこともあります。
また「理性に従えば幸福になれる」という考え方は一つの信念であり、実証された法則ではありません。読むときは、同意できる部分と引っかかる部分を分けて持ち帰るくらいの距離感がちょうどよいように思います。
日常に持ち帰るなら
とはいえ、思考の順番という視点は使いやすいものです。悩みがぐるぐる回るときに、次のように書き出してみる方法があります。
- いま自分が向き合っている目的は何か
- その目的にとって重要な検討はどれか、優先順位をつける
- 目的と関係の薄い考えごとを、いったん横に置く
これは本書の考え方を日常向けに置き換えた一例で、効果を保証するものではありません。目的を問うこと自体がつらく感じられる時期もあるでしょう。そういうときは、順番を整えるより先に休息や支援が必要です。
幸福を遠ざけているのは、考える力の不足ではなく、目的からずれた場所で考え続けてしまう癖かもしれません。少なくとも本書はそう問いかけます。すべてを受け入れる必要はありませんが、「今考えていることは、何のための考えか」と一度立ち止まる習慣なら、試してみる価値があるかもしれません。