仮の話として、二つの世界を想像してみる。世界Aでは自分の年収が500万円で、周りは250万円。世界Bでは自分が1000万円で、周りは2000万円。物価は同じだから、買えるものの量はBのほうが2倍多い。それでも、この質問をされた人のおよそ半分がAを選んだという調査がある。買えるものが半分になっても、周りより上の順位を選んだことになる。
この結果は、私たちが日々感じる「他人の幸せが気になる」感覚と地続きだ。同期の昇進、友人の結婚、隣の家の車。それらを見て落ち着かなくなるのは、心が弱いからではなく、自分がどこにいるかを知るための基本的な働きでもある。ただ、その比較がなぜ苦しくなるのかを丁寧に見ると、少し違う景色が見えてくる。
順位が効くものと、効かないもの
1995年、ハーバード公衆衛生大学院の研究者が教員や学生257人に、先ほどの二つの世界を選ばせる調査を行った。金額はドルで、自分が5万ドルで他人が2万5000ドルの世界と、自分が10万ドルで他人が20万ドルの世界。物価は同じ。それでも約半数が、買えるものが少ない前者を選んだ。
このように、他人との比較で価値が決まるものは地位財と呼ばれる。年収、家の広さ、肩書き、持ち物などは、絶対的な量そのものより、周りと比べてどうかで満足が左右されやすい。一方、同じ調査で、休暇の長さは違う結果になった。他人より短くても長い休暇を選ぶ人が多かった。休暇や健康、安全、人間関係は、順位を気にしなくても価値が変わらない非地位財にあたる。
厄介なのは、地位財は全員が同時に手に入れられないことだ。順位は誰かが上がれば誰かが下がる。全員の収入が同じだけ増えても順位は変わらない。走る速さが上がっても順番は同じ。この構造が、比較の苦しさの正体の一つになる。
豊かになっても幸福が追いつかない理由
国全体の豊かさと幸福の関係には、長年指摘されてきた矛盾がある。ある一時点で同じ国の中を見ると、収入が高い人ほど幸福だと答える傾向ははっきり出る。ところが、何十年という長さで見ると、国の所得が大きく伸びても平均的な幸福度はほとんど上がらない。これはイースタリンのパラドックスと呼ばれる。
この食い違いの有力な説明が、比較だ。自分の収入が増えるとき、周りの人の収入も同じように増えている。すると比べた結果は以前と変わらない。全員が2階に上がっても、見える景色の順番は同じまま。豊かさは増えたのに、比較の答えだけが据え置かれる。
2005年の研究では、自分の収入を同じに揃えた上で、近所の人たちの収入が高い地域ほど住む人の幸福度が低くなることが示された。同じ年収でも、周りが豊かな町に住むかどうかで感じる満足が変わる。しかも基準になるのは世界平均ではなく、同僚、同級生、隣の家など手の届く距離にいる人だ。遠くの成功より、同期の一人が先に昇進したほうがこたえる。
上ばかり見る視線と、編集された現実
1954年、心理学者のフェスティンガーは、人は自分を知るために他人と比べるという理論を出した。自分の能力や意見が正しいかどうかを測る物差しが内側にないとき、人は他人を物差しにする。比較はもともと苦しむための仕組みではなく、自分の位置を知るための道具として備わっている。
その比較には方向がある。自分より上を見る上方比較と、下を見る下方比較だ。上を見れば目標が見えるが、同時に足りなさも見える。下を見れば安心できるが、学べることは少ない。人は放っておくと上を見やすい。うまくいった人は語り、うまくいかなかった人は黙るため、目に入るのは成功した一部だけになる。相手の一番良い面と、自分の全部を比べれば、初めから釣り合わない勝負だ。
この上ばかり見る癖は、SNSによって限界まで引き出されている。ある研究では、若者に一日何度も連絡を取り、気分とSNSの利用を記録した。SNSを長く使った人ほどその後の気分が下がり、直接人に会った場合は逆に気分が上がっていた。
画面の中にはうまくいった場面だけが並ぶ。旅行の写真と、疲れて帰った自分の夜を並べてしまう。誰も落ちた面接や続かなかった努力は載せない。さらに「いいね」やフォロワー数という数字がつくと、曖昧だった順位がはっきり見えるようになる。スクロールしても次が出てきて、比較の材料は途切れない。かつては同期の近況を知るのは年に一度だったが、今は毎日更新される。一回ごとの痛みは小さくても、回数が桁違いに増えている。
比べること自体をやめようという話ではない。比較は自分の位置を知るための自然な働きで、そこから学べることもある。ただ、自分が何を比べているのか、そして比べている相手が編集された一部なのかどうかを意識するだけでも、苦しさの輪郭は変わる。順位を買うことを選ぶか、買えるものの量を選ぶか。最初の二つの世界に戻ったとき、自分がどちらを選んだかを覚えているなら、その選択の理由こそが、日々の比較と向き合う手がかりになる。