昭和の「猛烈社員」は何を背負っていたのか
高度経済成長期の日本では、会社に人生を捧げる勢いで働く「猛烈社員」が理想とされました。1960年代後半には「24時間戦えますか」というキャッチコピーが生まれ、長時間労働や自己犠牲が美徳とされる空気が広がります。通勤電車は乗車率が300%を超えることもあり、深夜まで残業した後に会議が始まるような働き方も珍しくありませんでした。
一方で、頑張りが給与や昇進に結びつきやすい面もありました。一部の企業では、成果に応じてまとまったボーナスが支給されることもあったといいます。地方から集団就職で都会に出た若者たちは「金の卵」と呼ばれ、経済成長の担い手になりました。ただし、その裏には安い賃金と過酷な労働があり、誰もが報われたわけではありません。
当たり前だったこと、今では選べること
昭和の職場では、週休二日制はまだ一般的ではありませんでした。1970年代後半から一部の大企業で試験的に導入され、1990年代に広がり、2002年には公立学校でも完全週休二日制が実施されています。有給休暇は1947年の労働基準法で権利として定められていましたが、当時は「休みたい」と言い出しにくい雰囲気が強くありました。
喫煙も、1966年の調査では成人男性の約8割が吸っていたとされ、職場や学校、病院などどこでもたばこを吸える時代でした。今では分煙や禁煙が進み、選べる環境に変わっています。ハラスメントという概念も当時は一般的ではなく、上司から部下への厳しい指導や、女性社員への身体的な接触が問題視されないことがありました。現代では法律や相談窓口が整備され、声を上げやすい仕組みが少しずつできています。
働きすぎないための3つの具体的な点検
昭和の価値観が残る職場にいると、「気合が足りない」と言われそうで、休みや残業の線引きに迷うことがあります。次の3つを試すと、自分の判断材料になります。
1. 休暇の伝え方を変える
たとえば、子どもの行事で休みたいとき、「休んでもいいでしょうか」と許可を求める形ではなく、「○日の午前は運動会のため休みます。前日までに△△を終わらせます」と事実と段取りを伝えます。すべての職場で通るわけではありませんが、曖昧な許可待ちを避け、自分の予定を明確にしやすくなります。
2. 残業の優先順位を共有する
やることが多すぎて深夜まで残ってしまうときは、業務の一覧と期限を上司に見せ、「どれを先に進め、どれを後回しにするか」を確認します。一人で抱え込まず、誰かに引き継げる部分がないか相談することも役立つことがあります。どうしても残業が続く場合は、健康への影響を記録しておくと、後の見直しにつながります。
3. つらい環境では記録と相談を
上司の暴言や身体的な接触、分煙されていない職場の煙で体調を崩す場合は、我慢し続けないことが大切です。日付・内容・相手・できれば証言を記録し、社内の相談窓口や外部の労働相談機関に連絡するという選択肢があります。環境そのものが変わらない場合は、異動や転職を視野に入れることも、自分を守るために必要です。
昭和の価値観から手放していいもの、残していいもの
猛烈に働くこと自体を否定する必要はありません。仕事に打ち込むことが向いている人もいます。ただ、それを全員に求め、休みや健康を犠牲にさせる文化には無理がありました。昭和の「当たり前」を振り返ると、今の自分が何を手放し、何を残したいかが見えてきます。
働き方の線引きは、一度決めたら終わりではありません。体調や家族の状況に合わせて、少しずつ変えていけば十分です。過去の常識に合わせるのではなく、今の自分に合うペースを選ぶことが、結果的に長く働き続けるための余白になります。