長男のスピーチ原稿を読み、涙が止まらなかったという。その内容は、私たちが何気なく交わす朝の挨拶「行ってきます」「行ってらっしゃい」の、本来の重みを問うものだった。
きっかけとなった一篇の記事
スピーチの中で紹介されていたのは、ある親子の話だ。毎日「行ってまいります」「行ってらっしゃい」を交わしていた親子がいた。しかしある日、子どもが「行ってきます」を言わずに家を出たまま、帰らぬ人となった。母親は、あの時「行ってらっしゃい」を言わなかったことを、一生悔やみ続けることになる。
「行ってまいります」に宿る意味
かつて「行ってきます」は「行ってまいります」と言った。「まいる」は「参る」――生きて帰って参ります、という命の宣言だ。対して「行ってらっしゃい」は「生きて帰ってらっしゃい」という、帰還を祈る言葉だった。
「行ってきます」「行ってらっしゃい」は、生きて帰ってきてね、生きて帰ってくるよという約束なんです
日々の実践として
話し手はこの由来を知ってから、必ず生きて帰ると決意して家を出る。母が仕事に出る際も、玄関まで見送り、「行ってらっしゃい」と声をかけ続けている。それは単なる習慣ではなく、「生きて帰ってきてね」という祈りを込める行為だという。
今、改めて考えること
忙しさの中で略され、形骸化しがちな挨拶。しかしその一言には、家族の命を預け合う覚悟があった。スピーチは、この原点に立ち返り、声を出すことの意味を問いかける。
- 「行ってきます」は、生きて帰るという誓い
- 「行ってらっしゃい」は、無事な帰還を願う祈り
- 交わすたびに、命の重みを確認し合う
朝の玄関で交わす言葉が、単なる儀礼ではなく、生きる約束であることを思い出す。それが、このスピーチが残した静かな余韻だ。