職場で「いなくなって初めて困る」と言われる人は、売上や肩書きで目立つ人とは限りません。むしろ、担当表に名前がない仕事を静かに拾い、部署の間に入り、会議で危ない方向に進みそうなときに口を開く人です。評価の場では見えにくいのに、その人が抜けると仕事の流れが止まる。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。
答えは、職場の安定を支える仕事の多くが「誰かの担当」になっていないからです。担当がないから引き継ぎ書にも載らず、代わりも決まらない。欠けてから初めて、その仕事の量と重さが見えます。ただし、これは特定の性格の人がえらいという話ではありません。役割を一人に寄せすぎないことが大切です。
担当表にない仕事が、職場の土台になる
朝いちばんに出社して給湯室の流しを片づける。届いた郵便物を部署ごとに仕分けて机に置く。シュレッダーがいっぱいなら黙って袋を替える。頼まれたわけでもないのに、気づくと手が動いている。こうした働きを、組織研究では組織市民行動と呼びます。職務記述書には書かれていない、自発的な手助けのことです。
1988年にデニス・オーガンがこの考え方を提唱し、その後、多くの研究で検討されてきました。2009年に発表された複数の研究のまとめでは、自発的な手助けが多い職場ほど生産性や顧客満足度が高く、離職も少ない傾向が報告されています。もちろん、一つの研究結果がすべての職場にそのまま当てはまるわけではありません。それでも、誰も担当していない仕事が職場の土台になっていることは少なくないのです。
仮に10人が毎日5分ずつ、探し物や片づけに時間を取られるとします。1か月でおよそ17時間。丸2日分の仕事が、目に見えないところで消えていく計算です。もし自分がこうした仕事を拾っているなら、一度紙に書き出してみてください。想像以上に長い一覧になり、自分の働きの輪郭が見えてきます。
ルールの理由を知る人は、失敗の記録を守っている
仮に、新しい課長が伝票の確認印を「二つも要るのは手間だ」と一つに変えたとします。半年後、取引先への二重払いが起きました。その確認印は、10年前に同じトラブルがあったことをきっかけに増やされたものでした。理由を知っていたベテラン社員は、すでに退職していたのです。
これは「チェスタトンの柵」と呼ばれる考え方に通じます。道の真ん中に立つ柵を見て、役に立たないから壊そうとする人に対して、何のためにあるか分からないなら壊してはいけない、まず理由を調べなさい、と問い返すたとえです。職場には、こうした柵がいくつもあります。厄介なのは、柵が立った理由がどこにも書かれていないことです。
科学者で哲学者のマイケル・ポランニーは、私たちは言葉にできるよりも多くのことを知っている、と述べました。言葉や文書になっていない知恵を暗黙知と呼びます。マニュアルには手順が書いてあっても、なぜその順番なのか、以前どんな方法で失敗したのかまでは残りにくいのです。身近に理由を知る人がいるなら、手順だけでなく「なぜそうするのか」を今のうちに聞いておく。その記憶は、会社が払ってきた失敗の授業料そのものです。
部署の間の「通訳」は、消えると溝になる
経理の担当者が、現場から上がってきた領収書を突き返します。現場の社員は「お客さんの前で細かいことを頼めるわけがない」と言い返す。どちらも自分の仕事を真面目にしているだけなのに、話は平行線のままです。そこへ一人の社員が間に入り、経理が気にしているのは税務調査の説明責任だと伝え、品さえ分かれれば備考のメモで補えると説明する。両方が納得し、話は片づきます。
シカゴ大学の社会学者ロナルド・バートは2004年、米国の大手電子機器メーカーで働く約670人のマネージャーを対象にした調査結果を発表しました。普段から別々のグループの人たちとつながっている人ほど、良い提案を出していると評価されやすかったのです。バートはグループ間のつながりの切れ目を構造的空隙と呼びました。その切れ目に立つ人には、別々の世界の情報が集まり、組み合わせから新しい考えが生まれやすくなります。
部署の通訳がいなくなると、この切れ目はそのまま深い溝に変わります。一人ひとりが優秀でも、互いの言葉を訳せる人がいなければ、確認のメールだけが増えていくことがあります。橋渡し役は、どちらの側からも「自分の仲間」と思われていないことがあります。それでも両方の言葉が分かるからこそ、その場所に立ち続けられるのです。
上司にも意見を言う人は、静かなブレーキになる
1977年3月、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島の空港で、航空史上有数の事故が起きました。濃い霧の中、二機のジャンボ機が滑走路上で衝突し、583人が亡くなっています。離陸を始めた機長はベテランでしたが、管制からの離陸許可はまだ明確ではありませんでした。操縦室にいた航空機関士は、もう一機がまだ滑走路にいるのではないかと口にしています。しかし機長は大丈夫だと言い切り、そのまま加速しました。
疑問に気づいた人は確かにいました。ただ、その声は立場の上の人の判断を止めるほど強くはなかったのです。この事故などをきっかけに、操縦室での話し合いのあり方が見直され、クルー・リソース・マネジメントと呼ばれる訓練が生まれました。立場が下の乗員も危ないと思ったらはっきり伝え、機長はその声に耳を傾ける。現在では、多くの航空会社で当たり前のように行われています。
会議室でも同じことが起こります。発売日に間に合わせるため検査を省こうという指示が出たとき、反対するだけではなく「不良品が出たときの回収費用のほうが大きくなります。検査を半分に減らし、発売後1週間は問い合わせ窓口を増やす方法もあります」と代わり案を添える。意見を言う人は、一見すると扱いにくい部下に見えるかもしれません。しかし、その人がしてきたのは上司に逆らうことではなく、取り返しのつかない判断を避けるための静かなブレーキです。
非常時に慌てない人は、空気を落ち着かせる
月曜の朝、受注システムが突然止まったとします。電話は鳴り続け、画面には何も映らない。誰が設定を変えたのか、先週の更新が原因ではないか。職場のあちこちでそんな声が上がる中、一人がホワイトボードの前に立ちます。「まず今日出荷しなければならない分だけ書き出しましょう。原因を探すのは、それが終わってからにしましょう」。その一言で、職場のざわつきが少しずつ収まっていく。そんな場面は、想像しやすいのではないでしょうか。
慌てた空気は人から人へ移ります。イエール大学のシガル・バーセイドが2002年に行った実験では、グループの中に一人だけ、明るく落ち着いた様子で話す仕掛け役を混ぜると、その気分がグループ全体に広がり、協力が増えて対立が減りました。逆に不機嫌な様子で話すと、その気分も周りに広がりました。責任の押し付けも同じように伝染します。2010年に発表された研究では、他人の失敗を周囲のせいにする記事を読んだ人は、その後、自分の失敗も他人のせいにしやすくなることが示されています。
緊急時に落ち着いている人は、特別に感情がないわけではありません。まず何を守るかを決め、原因探しと責任追及を後回しにする順番を持っているのです。ただし、落ち着いて見える人ばかりが頼りになるわけでもありません。周囲がその人の平静さに甘えすぎると、負担が一人に集まります。
「辞めたら困る」を美談にしないために
ここまで見てきた働きは、どれも評価表には載りにくいものです。だからこそ、個人の美徳として称賛するだけでは足りません。見えない仕事を一人に集めると、その人が休んだり辞めたりしたときに職場が止まります。ここに挙げるのは、そのための一つの提案です。
- 自分が拾っている仕事を書き出し、担当や頻度を可視化する。
- 手順だけでなく、その手順になった理由や過去の失敗もセットで残す。
- 部署間の橋渡しや緊急時の進行役を、特定の人に固定しない。
- 反対意見を言いやすいよう、問題点と代わり案をセットで出す習慣をつくる。
- 異議を言った人を「面倒な人」と扱わず、判断材料として受け取る。
これらを実践すれば必ずうまくいく、という保証はありません。職場の規模や文化によって、合う方法は変わります。また、すべての人が同じ役割を担う必要もありません。自分には向かないと感じる役割を無理に引き受ける必要はなく、評価や待遇が変わらない環境であれば、移動を考える選択肢もあります。
自分が「辞めたら困る人」に近いと感じたら、抱え込みすぎていないかを一度確認してください。困っているのは自分なのに、職場のためだと我慢を続ける必要はありません。疲れや不安が強い場合は、専門的な支援を求めることも選択肢の一つです。目立たない仕事を一人の犠牲で支えるのではなく、見える形にして分け合う。そのほうが、職場にとっても働く人にとっても現実的だと思います。