「会社に残るか、出るか」。50代でこの選択を前にすると、多くの人が「まだここにいたい」と考えます。それは怠けでも、会社を愛しているからでもありません。長いあいだ「ここにいれば安全」という前提で働いてきた人ほど、その前提が崩れたときに動けなくなる。心理学的には、何かを失う痛みは、同じ大きさの何かを得る喜びよりも強く感じられやすいとされています。だから「残る」という選択は、損得の計算というより、痛みを避ける反応として選ばれやすいのです。
なお、ここで取り上げるのは、ドラマ仕立てで描かれた物語の一場面です。作中の数字や出来事は創作を含む設定であり、そのまま現実の統計として受け取らないでください。そのうえで、そこに描かれている心理の動きは、現実の判断を考える手がかりになります。
「残る」を選ばせるのは、損得ではなく痛み
人の判断には、損失回避と現状維持バイアスという二つの癖が影響します。損失回避は「失う痛みのほうが大きく感じられる」こと、現状維持バイアスは「変化しない選択のほうが安全に見える」ことです。どちらも特別な人の話ではなく、誰にでも起こる反応です。
早期退職の割増退職金は、金額として示される具体的な「得」です。一方で、失うものは数字になりません。肩書き、毎日顔を合わせる同僚、通い慣れた廊下、家族に説明するときの気まずさ。形のないものは、想像のなかでどんどん大きく膨らみます。
仮の例として、52歳の課長が「自分がいなくなったら部署の段取りは誰がやるのか」と感じ、割増退職金の案内を封筒の奥にしまってしまう場面を考えてみます。ここで働いているのは損得の計算ではありません。「自分が必要とされている」という感覚を手放したくない、という痛みへの反応です。
会社のなかの評価と、外での値段はずれる
次に起きやすいのが、評価の物差しの取り違えです。大手企業で長く働いてきた人の年収には、年功の積み上げが含まれています。それは会社のなかで正当に評価された結果ですが、外の市場が同じ物差しを使っているとは限りません。
仮の例として、年収750万円の課長が転職フェアで「当社なら上限は600万円」と言われる場面を想像してみます。このとき「750万円の仕事ができるのに600万円なのか」と感じるか、「自分の価値は600万円なのか」と感じるかで、次の動き方は変わります。
大切なのは、提示された金額が自分の値打ちそのものではない、ということです。会社のなかの年収は、その会社の制度と在籍年数がつけた値札です。市場価値は、別の物差しで測った値札です。どちらかが正しいわけではなく、測り方が違うだけです。ここで「自分には何もない」と結論づけるのは、まだ早すぎます。
「当たり前」に名前をつけると、価値が見えてくる
長く同じ仕事をしてきた人ほど、自分の知識を「当たり前のこと」と捉えがちです。心理学では、言葉にしにくい経験知のことを暗黙知と呼びます。手順として説明できる知識ではなく、体で覚えた判断のことです。
たとえば、部品の調達を30年担当してきた人なら、どの取引先の品質が安定しているか、どこが納期に危うさを抱えやすいか、トラブル時に誰に電話すれば早いか、といったことを頭のなかに持っています。本人にとっては日常の一部ですが、その業界の外にいる人にとっては、お金を払ってでも欲しい情報です。
物語のなかでは、同僚たちが10年分の受注リストやメールを持ち寄り、本人の「30年」を棚卸しする場面があります。これは創作された場面ですが、実際に試せる方法でもあります。自分の仕事を「誰に、何を、どんな順番で、誰と組んで」という形で書き出してみる。数字や肩書きではなく、手順と人間関係を書くのがポイントです。
動くとしたら、何から確かめるか
判断を急ぐ必要はありません。ただ、知らずに残るのと、条件を知ったうえで残るのとでは、後悔の質が変わります。次のような点を確認しておくと、判断の材料になります。
- 制度の条件:割増の有無や金額は、募集の回を重ねるごとに下がることがあります。第1回と第2回で条件が違うこともあるため、自分の会社の規定を確認しておく。
- 出向と転籍の違い:在籍出向は元の会社との雇用関係が続きますが、転籍は雇用関係が切れ、退職金がその時点で精算される場合があります。
- 外の物差しに一度触れる:転職フェアや業界の集まりに、判断は後回しでよいので行ってみる。自分の値段を外から見る機会になります。
- 昔の取引先・仕事仲間に連絡する:名刺の整理でも構いません。相手が自分の名前を覚えているかどうかは、会ってみないと分かりません。
- 家族と数字を共有する:住宅ローンの残り、学費、生活費。一人で抱えると、想像のなかで不安が膨らみます。
ただし、これらは効果を保証するものではありません。転職活動をしても書類の段階で落ちることはありますし、声をかけてもらえるかどうかには運も関わります。合わない条件としては、健康上の制約がある、介護が続いている、住宅ローンの残りが大きい、年収が下がると家計が回らない、といった事情が挙げられます。その場合は、動くことより先に整えるべきものがあるかもしれません。
当てはまらない人もいる
50代の転職が厳しいのは事実です。大企業から出れば年収が下がる可能性は高く、面接まで進めないことも少なくありません。全員が顧問として迎え入れられるわけではなく、健康や介護、住宅ローン、地域の事情で動けない人もいます。残るという選択が間違いというわけでもありません。
また、不安が強くて眠れない、気分の落ち込みが続くといった状態があるなら、キャリアの前に心身のケアが優先です。ハローワークの窓口や自治体の相談機関、産業カウンセラーなど、話を聞いてくれる場所を頼ってください。
「しがみつく」を、別の言葉に置き換える
「しがみつく」という言葉には、少し責めるような響きがあります。でも実際には、長く同じ場所で働いてきた人ほど、外の物差しに触れる機会がなかっただけです。会社のなかの評価と、外での値段は、別の測り方で決まります。
まず自分の30年を、手順と人間関係の形で書き出してみる。それだけで、次に何を選ぶかの材料は少し変わります。残るにしても出るにしても、自分の「当たり前」に名前をつけてから決められるなら、その選択はもう少し落ち着いたものになります。