「障害のある子を産む覚悟がないなら産むな」「施設に預ければいい」といった言葉を、面と向かって言われたり、SNSで見かけたりすることがあります。一瞬ひるむのは自然な反応です。ただ、こうした発言の多くは、実際の確率や子育ての前提を確かめずに、強い印象だけで語られています。
まず、その場でどう応じるかは、相手との関係や安全を考えて選べます。たとえば、親しい相手で説明したいなら「その確率、実際に調べたことはありますか」と問いかける方法があります。職場などで深入りしたくないなら「そういう考え方もあるんですね」とだけ返して会話を終えるのも現実的です。SNS上なら、反応せずにミュートするのも自分を守る選択です。
恐れている事態は、数字で見るとどのくらい起きるのか
一つの試算では、知的障害のある子の出生割合は1〜2%程度、そのうち重度とされるのは10〜15%程度です。さらに行動障害を伴う割合を掛け合わせると、重度知的障害と行動障害が重なるケースは0.03%前後、3万人に1人程度という数字になります。
これはあくまで平均的な目安で、出産年齢や家族歴、支援の状況によって変わります。また、障害の定義や数え方によっても数字は動きます。それでも、雷で人が亡くなる確率と同程度とも言われ、日常で強く恐れられている割には、実際の発生率はかなり低いことがわかります。
珍しい事例ほど印象が強くなる
事故や事件、心に残る映像を見たあとは、それが実際より頻繁に起きているように感じることがあります。これは認知バイアスの一種です。印象が強いほど、人間は「起こりやすいことだ」と錯覚しやすくなります。出産や障害をめぐる不安も、同じ仕組みで増幅されている部分があります。
「他人に世話をしてもらうな」という前提の見直し
「他人に世話をしてもらおうなんて思うな」という言葉は、子育てを一人で完結させるべきだという前提に立っています。しかし、保育園や幼稚園、学校、医療、情報や道具まで含めると、子育てはもともと誰かの助けを借りながら行うものです。
アフリカには「子ども一人育てるには村一つ必要」ということわざがあります。人類史の長い期間、子育ては共同体で担われてきました。障害のあるなしにかかわらず、最初から支援を前提に考える方が、現実の子育てに近いと言えます。人に頼ることは弱さではなく、生活を組み立てるための工夫の一つです。
産むか産まないかは、個人の事情と社会の変化の中で決まる
日本ではすでに、子どもを産まない人の方が多数派になりつつあります。経済的な余裕がない、子育てにメリットを感じにくい、個人の生き方を優先したいなど、理由はさまざまです。少子化が後戻りできない段階に入ったという見方もありますが、それが良い悪いではなく、個人の選択を国家の都合だけで語る前提がずれてきているという指摘もあります。
今後数十年でAIが労働力を代替する可能性が指摘される中で、「国家のための労働力」として出産を促す発想自体も変わるかもしれません。産むか産まないかは、周囲の圧力ではなく、本人の事情と利用できる支援の中で決めていいことです。
それでも言葉に傷ついたときの現実的な選択
相手が繰り返し同じ話をしてくるなら、「その話題はお互い気持ちよく話せないのでやめましょう」と伝える方法があります。安全が確保できない場では、その場を離れることや、信頼できる人に相談することも選択肢です。距離を置くことが常に正解とは限りませんが、自分の心を守るための行動は尊重されてよいはずです。
出産や障害をめぐる心ない言葉は、珍しい事例への強い印象と、助けを借りることへの誤解から生まれていることが少なくありません。数字と子育ての前提を整理しておくと、相手の言葉にそのまま揺さぶられずに済みます。産むか産まないかは、個人の事情と支援環境の中で、自分のペースで考えてよいことなのです。