たとえば、給与明細を見て「まあ、これで十分やっていける」と思っていた日のこと。数時間後、何気なく同期の年収を耳にした瞬間、さっきまで満足していた自分の額が、急に心もとなく見えてくる。金額は一円も変わっていないのに、である。
この感覚は、欲が深いからでも、意思が弱いからでもない。人間が群れの中で自分の位置を測ってきた名残であり、多くの人が静かに抱えている。年収という数字は、その「位置」を一目で示してしまうから厄介だ。
年収は絶対額ではなく、隣との差で測られる
年収そのものには、多いか少ないかを決める絶対の物差しがない。100万円が高いのか安いのかは、それだけでは判断できない。だから人は、周囲の誰かと比べて、自分が上か下かで満足を決める。これを相対所得と呼ぶ考え方がある。
たとえば、自分の年収を金貨の山にたとえてみる。山の横には「これだけあれば足りる」という赤い線が引かれている。ところが、この線は地面に固定されていない。隣にもっと高い山が現れると、線はすっとその高さまで上がってしまう。自分の山は一枚も減っていないのに、線が上へ逃げた分だけ、山は低く見える。
この「足りる線」の正体が、比較の基準点だ。金額そのものではなく、基準点より上か下かで、私たちは満足や不足を感じている。
社会が豊かになっても、幸福が増えない逆説
この仕組みは、個人の感覚だけでなく、社会全体の幸福にも影響する。経済学では「イースタリンの逆説」と呼ばれる現象がある。国全体が何倍も豊かになっても、平均的な幸福感はほとんど横ばいのままだった、というものだ。
同じ時代の中で人々を並べれば、収入が高い人ほど幸福度も高い傾向がある。ところが、社会全体の収入が伸びても、みんなの順位は変わらない。全員の年収が一斉に2倍になったとしても、隣との差はそのまま2倍に広がるだけで、上下関係は何も変わらない。だから、嬉しさが残らない。
ただし、ここには大事な留保がある。食べていけない水準から人並みに暮らせる水準へ上がるまでは、お金が増えると幸福もはっきり増える。相対比較が強く効いてくるのは、生活に困っていない、いわば「足りている領域」に入ってからだ。ここで扱うのは、生きるのに困っていないのに、なぜか物足りないという心の領域である。
身近な相手ほど、足りる線を押し上げる
基準点を一番強く押し上げるのは、遠い大金持ちではない。同期、同級生、ご近所、自分と似た人だ。経済学では「隣人効果」と呼ばれる考え方がある。自分の収入が同じでも、近所の平均収入が高い地域に住む人ほど、生活への満足度が低い、という傾向を示す調査がある。
なぜ近い相手ほど胸に刺さるのか。それは、その人が「自分にもあり得た姿」に見えるからだ。テレビの向こうの富豪には、正直あまり心が動かない。でも、同じ教室にいた相手が今どのくらいの高さにいるかは、手が届きそうな「あと少し上」に線を引く。同窓会が少し怖いのも、この線が一気に目の前に並ぶからだろう。
厄介なのは、比べて上に立った側も長くは安心できないことだ。勝ったと思っても、次はさらに上の人が目に入る。線はまた上がる。順位を追いかけるレースには終わりがない。
上がってもまた足りない、慣れという落とし穴
給料が上がった瞬間は確かに嬉しい。少し良い店に行き、良いものを買う。世界が明るく見える。ところが、その喜びは数ヶ月もすると薄れる。新しい収入が当たり前になり、良い店も普通になる。これを「慣れ」と呼ぶ。
慣れは、幸福の伸びを打ち消す。だから、いくら積んでも足りた気がしない。追いかけているのが金額そのものではなく、金額の形をした順位だからだ。上には必ず上がいる。1位になっても、別の物差しの1位が気になる。
線の高さは、自分の目が決めている
ただ、一つだけ救いがある。誰を隣に置くかは、ある程度自分で選べる。上ばかりを見に行く場所から少し離れるだけで、足りる線の高さは変わる。SNSで同い年の収入を探しに行くのも、同窓会の噂をわざわざ聞きに行くのも、線を上げているのは実は自分の目だ。
これは「お金は大事ではない」という話ではない。生活の土台が整っていない苦しさは、相対の話とは別に切実だ。また、他人の年収が気になる自分を責める必要もない。比較は、心にあらかじめ組み込まれた古い装備が、数字という見えやすい対象に反応しているだけだから。
年収の物足りなさは、自分の欠陥ではなく、基準点がどこに引かれているかの問題かもしれない。金額を増やすだけでは、線は追いつかない。時々、自分がどの「隣」を見ているのかを確認するだけでも、苦しさの質は少し変わる。